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岡田藩(おかだはん)は、備中国下道郡岡田村(岡山県倉敷市真備町岡田)の岡田陣屋に藩庁を置いた藩。藩祖は豊臣秀吉に仕えた伊東長実。
江戸時代初期から廃藩置県まで伊東氏が一貫して10代にわたり藩主を務めた。石高は1万石余。陣屋は幾度かの移転を経ており、元禄年間には西国街道川辺宿(倉敷市真備町川辺)に陣屋を置いたことから川辺藩(かわべはん)とも呼ばれる。 伊東祐親の子孫である藩祖・長実は豊臣秀吉・秀頼に仕えて大坂の陣まで豊臣氏の家臣であった。関ヶ原の戦いに際し、上方での石田三成挙兵の報をいち早く徳川家康に伝えたとされる。大坂の陣[注釈 1]では子の長昌共々豊臣方として家康に敵対し、大坂城に籠城するが、戦後許された。元和元年(1615年)、備中国下道郡・美濃国池田郡・摂津国豊島郡・河内国高安郡の各郡内に1万343石を与えられ立藩した(「関ヶ原の戦いの戦後処理#本領安堵」の項目も参照)。
沿革
元禄14年(1701年)、岡田村の山屋敷(現在の倉敷市立岡田小学校)に移す[3]。
以後、明治4年(1871年)の廃藩置県まで一貫して伊東氏の所領となった。廃藩置県後岡田県となり、深津県・小田県を経て岡山県に編入された。伊東氏は、後に華族に列し子爵となった。
新本義民騒動義民碑詳細は「新本義民騒動」を参照
享保3年(1718年)、第5代藩主・長救の時代に領民による一揆が起こった。後に新本義民騒動(しんぽんぎみんそうどう)と呼ばれるようになった。
藩領内の新庄村と本庄村(のちの新本村、現・総社市新本)に跨る大平山と春山は領民の入会地であった。藩はこれを「お留山」と称する藩の公地とし、領民の立ち入りを禁じ、さらに樹木伐採とそれを薪として陣屋まで運ばせる賦役を課した。これに反対した領民は代表4人を江戸に送り藩主に直訴し、お留山と賦役は、無事解消された。しかし、直訴した4人は処刑され、その家族・騒動の加担者は領内から追放された。
処刑された4人は義民四人衆と呼ばれ、現在、新本にはその功績を称えるために義民碑が建てられている[4]。 伊東家
歴代藩主