岡田 惣一郎(おかだ そういちろう、1885年(明治18年) - 1927年(昭和2年))は、四日市岡田家・岡田屋の6代目当主である。5代目当主の岡田惣右衛門の甥で養子。 5代目四日市岡田家当主の岡田惣右衛門夫妻は不妊症で、子どもが生まれなかった。[1]「このままでは岡田屋が滅亡する。夫婦養子をとろう」となり、岡田惣右衛門の妹の岡田ひさが婿養子をもらうこととなった。婿養子となったのは、前田末吉 岡田惣一郎は、1902年(明治35年)に、四日市商業学校を卒業した。[5][6]当時に東京専門学校から昇格した早稲田大学に進学。1905年(明治38年)7月に、早稲田大学を卒業する。アメリカの大学に留学を希望したが、岡田惣右衛門の怒りを買い、強制的に岡田屋に連れ戻される。岡田惣一郎は名古屋市にある陸軍の歩兵第六連隊に志願兵として入営する。 岡田惣一郎の妻の岡田田鶴(旧姓は美濃部田鶴)は、四日市高等女学校(現在の三重県立四日市高等学校)を卒業し、鈴鹿市から四日市市に通う茶道教室の師範生だった。岡田田鶴の父の美濃部鏘次郎
目次
1 概要
1.1 経歴
2 東海道徒歩旅行記
3 家族
4 参考文献
5 引用(ホームページ)
6 脚注
概要
経歴
1921年(大正10年)に店内に和服以外の洋服部を開設して、洋服の販売を開始した。また社員への福利厚生のため、新たに岡田屋の社宅を新設して、岡田屋社員の住宅設備も整備した。[8]
岡田惣一郎は、1927年(昭和2年)に病気(心臓弁膜症)のため42歳で逝去した。その後は長男の卓也が2歳の幼少だったので、岡田卓也の姉2人が後見人となった[9]。 岡田惣一郎は早稲田大学在学中に、日記や東海道徒歩旅行記を書き残している。1902年(明治35年)、惣一郎は渋沢栄一と会見するため、四日市の地場産業である万古焼を販売してその資金を旅行費にし、5人の友人と東京市まで旅行した。7月12日に四日市を出発し、10日後には次のように記している。[10]「明治35年7月22日に遂に我等が今の次の大旅行の最大の目的たる実業家の渋沢栄一先生との面談かなえる。その間わずか2分余りといえども、門衛の制するを払い、我等身分。経歴を唱和し、我等尊仰する産業指導者の渋沢栄一先生に面談のため四日市より徒歩にて来りしを告げる。先生、一言なかりしも、我等一人一人と握手を交したり。この感激を如く何に伝えん」 「記岡田」と署名があり、記述者は岡田惣一郎だった[11][12]。 実父は婿養子で出自不明の前田末吉。実母は岡田惣右衛門の妹・ひさ。妻の田鶴は1935年(昭和10年)に結核のため病死した。娘は合計4人で長女の嘉津子(結婚後の昭和16年に病死)・次女の小嶋千鶴子(旧姓岡田千鶴子)・三女の稔子・四女のみどりの4人の女子がいる。末子(長男)がイオングループ創業者の岡田卓也。孫にはイオングループ経営者の岡田元也と政治家の岡田克也などがいる。 [ヘルプ]
東海道徒歩旅行記
家族
参考文献
四日市市制111周年記念出版本「四日市の礎111人のドラマとその横顔」の5代目四日市岡田家当主の岡田惣一郎の項目
四日市市史(第18巻・通史編・近代)
ジャスコ株式会社(社史)
「岡田克也父と子の野望」
引用(ホームページ)
イオングループホームページ
ホームページ『系図で見る近現代第30回』イオングループ岡田家[13]
脚注
^ 『岡田克也父と子の野望』69頁
^ 大黒柱に車をつけろ イオン名誉会長・岡田卓也氏が振り返る戦後流通革命(朝日新聞)
^ 『岡田卓也の十章 イオンの基本』
^ 小売業の繁栄は平和の象徴 私の履歴書 日経文芸文庫 / 岡田卓也 〔文庫〕 2013年10月25日日本経済新聞出版
^ 現在は三重県立四日市商業高等学校となっている
^ 『岡田克也父と子の野望』73頁
^ 『岡田克也父と子の野望』78頁
^ 『岡田克也父と子の野望』88頁
^ ⇒イオン 。企業情報 。企業沿革
^ 『岡田克也父と子の野望』72頁
^ 四日市市制111周年記念出版本「四日市の礎111人のドラマとその横顔」p76、
^ 四日市市制111周年記念出版本の岡田惣一郎の項目の第1段落の上部の10行目から第2段落の下部の26行目
^ ⇒http://episode.kingendaikeizu.net/30.htm
更新日時:2017年11月1日(水)05:52
取得日時:2019/08/01 15:24