岡田彰布
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岡田 彰布阪神タイガース 監督 #80
2023年3月26日 京セラドーム大阪
基本情報
国籍 日本
出身地大阪府大阪市中央区
生年月日 (1957-11-25) 1957年11月25日(66歳)
身長
体重175 cm
77 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション二塁手三塁手一塁手外野手
プロ入り1979年 ドラフト1位
初出場1980年4月11日
最終出場1995年10月2日(公式戦)
1996年3月26日(現役引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


北陽高等学校

早稲田大学

阪神タイガース (1980 - 1993)

オリックス・ブルーウェーブ (1994 - 1995)

監督・コーチ歴


オリックス・ブルーウェーブ (1996 - 1997)

阪神タイガース (1998 - 2008)

オリックス・バファローズ (2010 - 2012)

阪神タイガース (2023 - )

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岡田 彰布(おかだ あきのぶ、1957年11月25日[1] - )は、大阪府大阪市中央区出身の元プロ野球選手内野手外野手、右投右打)、プロ野球監督。愛称は「どんでん」[2][3][4]阪神タイガース第30代及び第35代監督、オリックス・バファローズ第25代監督。
経歴
幼少期からタイガースと共に

大阪市中央区玉造で「大阪紙工所」という町工場を経営していた父親は阪神の有力後援者で、村山実藤本勝巳らと親交があったことから幼少時よりタイガースと縁深く育った[5]。東大阪市にある私立朝陽ヶ丘幼稚園に入園後には、当時のタイガースの正三塁手だった三宅秀史とキャッチボールし、それ以来、三宅に憧れを抱いたという[5]。岡田が後にタイガースへ入団し、背番号16を希望したのはかつて三宅が着用していた番号だったからである[6]。1962年の阪神の優勝パレードでは選手と一緒に車に乗って沿道に手を振っていた[7]大阪市立愛日小学校5年生で南海ホークスが運営していた少年野球チーム「リトルホークス」に入団、本格的に野球を始めた[8]。父親の町工場においても草野球チームを結成し、岡田自身も村山が着用している背番号11を付けてマウンドに上がった。また、阪神甲子園球場へタイガースの試合を見に行くことがあったが、観戦する場所はネット裏やタイガースファンの多い一塁側ではなく敵側ベンチのある三塁側で、その理由として読売ジャイアンツ長嶋茂雄を一番近くで見ることが出来る上、そこから野次を飛ばすためだったという[9]

1972年明星中学校3年生時に中学野球大阪府大会で優勝。1973年3月、村山実の引退試合が行われたが、最後のマウンドへ上がる村山のキャッチボールの相手を試合前に務めた[5][10]。同年4月、北陽高等学校に進学。2学年上には有田二三男(のち近鉄)と慶元秀章(のち近畿大学?クラウンライター/西武?近鉄)がいた。同年夏の甲子園左翼手として出場、7番あるいは2番打者として起用される。3回戦では有田が宮崎県立高鍋高等学校からノーヒットノーランを達成。準々決勝に進むが愛媛県立今治西高等学校に2対6で敗れた。この大会では3試合で9打数3安打、打率.333を記録している[11]。3年生時の1975年にはエース兼4番打者として府予選決勝まで進出するも、興國高に0対2で敗れ、甲子園出場は果たせなかった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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