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岡田虎二郎 生誕の地 石碑(愛知県田原市田原町)
岡田式静座法(おかだしきせいざほう)は、岡田虎二郎によって創始された修養法。岡田式静坐法とも表記する。大正時代の健康ブームの火付け役となった。 正しい姿勢によって安定した心を生み出し「心の欲するところに従って矩を超えず」の境地を目指す。岡田によれば、静坐すれば心の平和を得、心が平和になれば品性美と肉体美とすなわち精神と精力とともに充実した人格ができるという。大正時代に民間療法として一大ブームになった。 方法としては次のような姿勢で行う。 そして次のように呼吸する。 この際無念無想や精神集中ということを考えず、あるがままに行う。 岡田式静座法は座禅に近いと言われる。しかし座布が不要であり、日本人の伝統的な生活習慣を活用したものである。 岡田(1872年 - 1920年)は、三河国渥美郡田原町(愛知県田原市)の旧田原藩士族の次男として生まれた[1]。父親は郡役所の書記などをしていた[2]。早産で生まれ、生まれつき虚弱であったが、13、4歳の時に一種の霊感を受けたといい、心身が一変、強健となって、以来心身の改造に志した。16歳で高等小学校を卒業後農業に従事し、農事講習会にも熱心に参加して独自の害虫駆除法を編み出したほか自作米で全国一位を受賞するなど農業改良運動家として活躍する一方、植物の改良だけでなく、自身の心身改良のため食生活の研究や鍛錬法などを試みた[1]。1899年渡米して見聞を広め、ヨーロッパを経由して1905年に帰国し、地元の素封家の娘と結婚し一女をもうけるも翌1906年に離婚[1]。甲州の山にこもったのち東京で働く兄弟を頼って上京し、自己鍛錬の日々を送る[1]。1907年に、心身病弱者を救済するという広告を新聞に出し、実際に治癒に導いたことから次第に訪ねる人も増え、1910年ころには相当の評判を呼び、日暮里の本行寺を借りて静座会を始めた[1]。1911年には「岡田式呼吸静坐法」の雑誌連載が始まり、それをまとめた単行本はベストセラーとなった[1]。 自身は巨体、睡眠は4時間で、午前4時に起床し、5時に朝食、食事は簡素で、1日2回の水浴をするという生活を送った。文化人、芸術家、政治家などの有名人をはじめ、多くの信奉者を抱えていたが、49歳のときに尿毒症で急死。盛況だった静坐会も一気に衰退したが、岡田の死後もいくつかの静坐会は各地で存続した[3]。妻との間に娘礼子。 静座会は都内だけで百数十か所で開催され、正式な登録会員だけでも2万人いたと言われる[1]。岡田式の実践者とされる著名人には、木下尚江、田中正造、相馬黒光、高田早苗、天野為之、浮田和民、岸本能武太、坪内逍遥、東儀鉄笛、閑院宮・東伏見宮夫妻、徳川慶久、安田善次郎、徳川慶喜、渋沢栄一、中里介山、島村抱月、村井弦斎、郭沫若、中原悌二郎、芦田惠之助、筧克彦、福来友吉、柳田誠二郎、岡田完二郎、橘孝三郎、八代六郎、今岡信一良、小山東助、星島二郎などがいた。
目次
1 概要
2 岡田虎二郎
3 坐法
4 静坐中の心境
5 静坐の時間
6 呼吸
7 注意
8 関連書 Further reading
9 脚注
10 外部リンク
概要
両足を土踏まずのところでX字型に深く組む(いわゆる「正座」を深くした形)
腰を立て、背筋をまっすぐにする。
鳩尾(みずおち)を落とし胸と肩の力をゆるめる。
両手は深く軽く組んで腹につけ、掌を下にして膝の上に置く。
眼は堅く閉じ顎を引く。
静かに息を吐きながらお腹に力を入れる。全部吐き切るのではなく2分くらい残す。
お腹の力をゆるめ、鼻から入ってくる息を吸う。意識的に吸うのではなく自然にまかせる。
岡田虎二郎 岡田虎二郎邸宅跡(田原市田原町)
坐法