岡林信康
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岡林 信康
生誕 (1946-07-22)
1946年7月22日(77歳)
出身地 日本 滋賀県近江八幡市
学歴同志社大学神学部中退
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フォークソング

ロック

職業

シンガーソングライター

音楽プロデューサー

担当楽器

ボーカル

ギター

ハーモニカ

活動期間1968年 (1968) -
レーベル

Victor

URCレコード

CBS・ソニー

日本コロムビア

Invitation

EASTWORLD

日本クラウン

事務所アミューズ(1980年頃)
共同作業者

はっぴいえんど(バックバンド)

松本隆(プロデューサー)

加藤和彦(プロデューサー)

公式サイト ⇒fuji-okabayashi.com
ボブ・ディラン

岡林 信康(おかばやし のぶやす、1946年昭和21年〉7月22日 - )は、日本フォークシンガーシンガーソングライター血液型はO型(本人はA型に近いO型と語っている)。滋賀県近江八幡市出身[1]

実家は教会で、父親は牧師。現在は京都府亀岡市在住。
経歴
生い立ち

父の岡林勝治は新潟県の出身で、30歳まで新潟で農業をしていた[2][3][4]。しかし、閉鎖的な村社会が嫌になって故郷を飛び出し、滋賀県紡績工場に就職[4]。その時期に宣教師ウィリアム・メレル・ヴォーリズに出会い、牧師となるため大阪神学校に通った後、近江八幡市の田んぼのど真ん中に西洋建築の教会を建てた[2][3](近江金田教会の礼拝堂は現存し、2012年(平成20年)に国の登録有形文化財に登録されている[5])。当地で信康は生まれる[1]近江兄弟社中学滋賀県立八日市高等学校を経て、1966年同志社大学神学部入学。牧師を目指していたため、音楽はクラシック讃美歌だけしか聴かず[1]、他は全て悪魔の音楽と思っていたという[1]。熱心なキリスト教信者であったが、実家の教会の不良少女の扱い(お祈りをさせないなど)に疑問を感じ「脱出」[3]、その後社会主義運動に身を投じる中で、高石ともやに出会いギターを始める。
フォークシンガーとして

1968年、大学をやめ、工事現場で人夫として働く[1]。同年「高石音楽事務所」に所属[1]、労音(勤労者音楽協議会)回りを始める[1]。京都で行われた第3回フォークキャンプに参加。同年9月、山谷に住む日雇い労働者を題材とした「山谷ブルース」でビクターよりレコード・デビュー。翌年までに、「友よ」「手紙」「チューリップのアップリケ」、「くそくらえ節」、「がいこつの歌」など、名作・問題作を発表。その内容から、多くの曲が放送禁止となる。当時、岡林とともに高石ともや、高田渡加川良五つの赤い風船なども活躍し、プロテスト・フォーク、反戦フォークが若者の間でブームとなった[6]。中でも岡林は一世を風靡し、「フォークの神様」と言われたが[1]、労音との軋轢や周囲が押しつけてくるイメージと本人の志向のギャップ(同時期、岡林はすでに直接的なプロテストソングに行き詰まりを感じており[1]、ロックへの転向を模索していた)などにより1969年9月、3か月余りのスケジュールを残したまま一時蒸発した[1][2]。書き置きは「下痢を治しに行ってきます」[2]長野県材木切り肉体労働に従事[1]

1970年4月、コンサートに再登場[1]、「ごめんやす。出戻りです。お互い堅くならんといきましょう」と話した[2]。この時期からボブ・ディランに影響を受けたロックを[1]、当時無名だったはっぴいえんどをバックに展開し始める[1]ヒッピーを目指し[1]、それまでの労務者風のスタイルとは似ても似つかぬ黒い革ジャンにピッチリしたスラックスできめた[1]。「それで自由になったのかい」「私たちの望むものは」「自由への長い旅」などの作品を発表、喝采を浴びて東京に移り住み、一夫一婦制ナンセンスを唱えて自由なヒッピー風生活をするが行き詰る[2]

1971年日比谷野外音楽堂での「自作自演コンサート 狂い咲き」および、「第3回中津川フォークジャンボリー」を最後に、再び表舞台から姿を消す[1]
4年間の農耕生活

やがて岡林は人や街を嫌い、被害妄想、及び自閉症が進行[1]三重県で農業共同体を営んでいた山岸会を見学し、「ヤマギシズム」に傾倒[2]。自然の環境に身を置こうと岐阜県中津川近くの山村に移り住み、約1年後京都府綾部市の総戸数17戸の過疎村に居を移し農耕生活を始める[1][2][3][7]

農村に移住して、村の生活の中でリラックスし始めていたが、ギターに触れることもせず、歌手であることも忘れようとしていた(たまにゲスト出演などで他人のコンサートに出ても円形脱毛症になることがあった)[8]。そんな中つぶれかけの蔵の中で座禅・瞑想を30分ほどするようになり、半年ばかり過ぎた頃、誰かがポンと肩を叩いたような感覚になり、「無理をしてきたなぁ。もうこれから無理をする必要はないんだよ」という声が聞こえ、突如背中に電気が走ったようになり、涙がとめどなく溢れてきた。30分ほど泣き続け、体中をしばっていた鎧が粉々に飛び散ったような爽快感が広がっていくようであった[8][9]。それ以降、どんどんリラックスするようになり、いろんな価値観が変わっていくようになり、自分の歪をもっと知りたいと精神分析の本も読み漁ったりする中、新しい音楽を作る気持ちになった[8][9]

1973年CBS・ソニーへ移籍し、活動を再開[1]松本隆をプロデューサーに迎え制作されたロック路線のアルバム『金色のライオン』、『誰ぞこの子に愛の手を』などを発表。いかに今まで無理してきたかを普通の表現法では無理だったため、ディラン風の暗喩を多用した「あの娘と遠くまで」、「26ばんめの秋」などの曲などを発表するが、相変わらず「フォークの神様」を期待するファンは多かった[8]
復帰後

数年間の農村生活の間、文明との接点は古ぼけたステレオだけ、次第に肩肘から力がとれた[2]。知人である黒田征太郎宅のテレビで、西川峰子の「あなたにあげる」を聴いて感激[2][10][11]。「おれのものも歌だが、演歌もまた歌だ。歌にはいろいろな役目がある」と、ぽつりぽつりと自分だけの演歌を作り始めた[2]。作り始める中、いろんな演歌のレコードを買いあさり、演歌にのめり込んでいる中、自身の音楽のルーツが賛美歌やクラシック音楽だけではなく、ラジオから流れて聴いていた演歌にもあったことに気づく[10][11]。「月の夜汽車」「風の流れに」が美空ひばりに採用される。4年間にわたる農耕生活を終え[7] 山を降り亀岡市に転居。


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