岡村昭彦
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岡村 昭彦
『ベストセラー物語(下)』(朝日新聞社、1967年)
国籍 日本
出身地東京府
生年月日1929年1月1日
没年月日 (1985-03-24) 1985年3月24日(56歳没)
最終学歴東京中学
公式サイト ⇒岡村昭彦の会
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岡村 昭彦(おかむら あきひこ、1929年昭和4年〉1月1日 - 1985年〈昭和60年〉3月24日)は、日本写真家ジャーナリストベトナム戦争を撮影した報道写真で知られる。
経歴・概要

東京府出身。大日本帝国海軍参謀の岡村於菟彦の長男として生まれる。父方の曾祖父に明治天皇侍従堤正誼、父方の祖父に大審院判事弁護士中央大学学長の岡村輝彦がおり、母方の曾祖父に日本赤十字社創設者で伯爵佐野常民、母方の祖父に海軍少将子爵田村丕顕がいる。父のいとこに二・二六事件判決後に後追い自殺した海軍少佐堤正之、伯父(父の姉の夫)に医学者緒方知三郎、弟に、後の俳優岡村春彦がいる。

学習院初等科から学習院中等科に進むが退学。東京中学に転じて卒業。伯父の緒方知三郎が学長を務める東京医学専門学校(現在の東京医科大学)に進む。

敗戦後は父親の公職追放に伴って困窮生活を送り、輪タク屋などの肉体労働を経験。1947年、学費値上げに反対して演説を行い、東京医学専門学校から退学処分を受ける。

その後、日本共産党の活動家として北海道に渡り、札幌南高等学校在学中(当時)の加清純子渡辺淳一阿寒に果つ』の主人公のモデルとなった画家。戸田城聖の姪)と恋仲となる[1]1951年10月、日本共産党の第5回全国協議会(五全協)の決定に従って山村工作隊の一員となり、釧路に移住。このとき医師免許を持たぬまま東京大学医学士と称し、岡村照彦の偽名のもとに釧路市で医院を開き、無資格の女子高生を看護婦に仕立てて同居し、薬局から大量の医薬品を詐取していたため、同年12月16日詐欺容疑で釧路市警に逮捕される[2]。このとき岡村には、医師法違反や医療法違反のほか堕胎罪の容疑もかけられていた[3]。岡村から拙劣な堕胎手術を受けたため重態となり、再手術を余儀なくされたとの複数女性からの訴えがあった[4]。このとき岡村は「効かぬ注射で高い金をとる医者は立派な詐欺行為だ。私はどんな病気でも治せる自信を持っている」[3]と強弁したが、1952年1月26日に釧路地裁で懲役4月の実刑判決を受け[5]釧路刑務所に収監される。これに先立つ1949年、岡村は医師政令162号違反で懲役6月・執行猶予3年の判決を受けていた上、1950年には横浜地裁から米国のドル不法所持で懲役1年・執行猶予3年の判決を受けていたため[6]執行猶予は取り消され、前刑と併せて服役することとなった[5]。このとき、加清純子は岡村を保釈するために奔走し、釧路刑務所で岡村と面会した後に、行方不明となり阿寒湖畔を経由する道で死体として発見された[1]

出所後、修道院の客室係や書店員などを経て三池闘争に参加し、三池の炭鉱労働者街に住み込む中で被差別部落出身の炭鉱労働者や松本治一郎と出会い、部落問題への関心を形成[7]1959年頃、部落解放同盟に参加しオルグ活動を行いながら皮革工場で働くうちに、ある部落出身労働者と出会い、1960年から食客としてその部落の家を転々と移り住みながら冤罪事件や下水問題などの解決・解消のための活動をする[7]。しかし『週刊実話』にその地域出身の若者の集団による輪姦事件が詳細に報じられた折、同誌への情報提供者とみなされて彼らから吊し上げを受け、1961年にその場を去る[7]

その後、総評の週刊誌「新週刊」編集部を経て[8]1962年(昭和37年)PANA通信社(現時事通信フォト)の契約特派員となる。当時、岡村はPANAの東南アジア、韓国などの国々に契約特派員として派遣されていた。ベトナムではベトナム戦争を最前線で取材し、韓国ではミサイル基地で起きた少年殺人事件と李承晩ラインを取材。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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