岡本綺堂
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誕生岡本 啓二(おかもと けいじ)
(1872-11-15) 1872年11月15日
東京府東京市芝区
死没 (1939-03-01) 1939年3月1日(66歳没)
東京府東京市目黒区上目黒
墓地青山霊園
職業小説家劇作家
言語日本語
国籍 日本
ジャンル小説戯曲
代表作『維新前後』(1908年)
半七捕物帳』(1917年)
番町皿屋敷』(1917年)
修禅寺物語』(1918年)
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岡本綺堂(おかもと きどう、1872年11月15日明治5年10月15日) - 1939年3月1日)は、日本の小説家劇作家。本名は岡本 敬二(おかもと けいじ)[1]。別号に狂綺堂、鬼菫、甲字楼など。新歌舞伎の作者として知られ、また著名な作品として小説「半七捕物帳」などがある。帝国芸術院会員。

養子の岡本経一は、出版社「青蛙房」の創業者で、社名は綺堂の作品「青蛙堂鬼談」に由来している。
経歴

徳川幕府御家人で維新後にイギリス公使館に書記として[2] 勤めていた敬之助(後に純(きよし)、号は半渓[2])の長男として東京高輪の泉岳寺の近くに生まれる。1873年、公使館の麹町移転とともに飯田町をへて麹町元園町に移って育つ。3歳にして父から漢文素読、9歳から漢詩を学び[2]、叔父と公使館留学生からは英語を学んだ。平河小学校(現・千代田区立麹町小学校)卒業後[2]、東京府尋常中学(のちの府立一中、現・東京都立日比谷高等学校)に進み、在学中から劇作家を志した。卒業後は第一高等中学(現在の東京大学)には進学せずに1890年東京日日新聞入社[2]。以来、中央新聞社、絵入日報社などを経て、1913年まで24年間を新聞記者として過ごす。日露戦争では従軍記者として満州にも滞在した[3]吉原芸妓をしていた宇和島藩士の娘の小島栄を落籍して結婚。

記者として狂綺堂の名で劇評や社会探訪記事を書きながら、1891年、東京日日新聞に小説「高松城」を発表。1896年、『歌舞伎新報』に処女戯曲「紫宸殿」を発表。1902年、「金鯱噂高浪(こがねのしゃちうわさのたかなみ)」(岡鬼太郎と合作)が歌舞伎座で上演される。この作品の評価はいまひとつだったようだが、その後、「維新前後」や「修禅寺物語」の成功によって、新歌舞伎を代表する劇作家となり、「綺堂物」といった言葉も生まれた。

1913年以降は作家活動に専念、新聞連載の長編や、探偵物、怪奇怪談作品を多数執筆。生涯に196篇の戯曲を残した。1916年には国民新聞時事新報の2紙に新聞小説を同時に連載(「墨染」「絵絹」)。同年、シャーロック・ホームズに影響を受け、日本最初の岡っ引捕り物小説「半七捕物帳」の執筆を開始、江戸情緒溢れる描写で長く人気を得た。怪奇ものでは、中国志怪小説英米怪奇小説の翻案や、『世界怪談名作集』、『支那怪奇小説集』などの編訳もある。幼少期からの歌舞伎鑑賞を回想した『ランプの下にて』は明治期歌舞伎の貴重な資料となっている。

1918年に欧米を訪問し、作風が変わったとも言われる。1923年9月1日の関東大震災麹町の自宅・蔵書(日記)を失い、門下の額田六福の家に身を寄せ、その後麻布、翌年百人町に転居。1930年には後進を育てるために月刊誌『舞台』を発刊、監修を務める。1937年には演劇界から初の芸術院会員となる。昭和10年頃からは小説(読物)や随筆は、散発的に『サンデー毎日』誌に書く巷談ぐらいになり、1937年「虎」が最後の読物となるが、戯曲は『舞台』誌で1938年まで発表を続けた。

1939年、上目黒の自宅にて気管支炎に肺浸潤を併発して死去。戒名は常楽院綺堂日敬居士[4]青山墓地に葬られる。没後、元書生で養嗣子の岡本経一が綺堂作品の保存普及を目的として出版社「青蛙房」を創立した。二代目社長の岡本修一[5]は綺堂の孫にあたる。

また、没後に経一の寄付金をもとに戯曲を対象とする文学賞である岡本綺堂賞 [1] が創設されたが、日本文学報国会が運営していたため、終戦とともにわずか2回で終了した。
代表作
戯曲

「紫宸殿」は1902年に歌舞伎座で初演。1908年に二代目市川左團次明治座での「革新興行」で川上音二郎の依頼で「維新前後」を書く。この後左團次のために65編を書くほどの密接な関係となり、左團次の当り芸シリーズ「杏花戯曲十種」のうちの「修禅寺物語」など6編が綺堂作であり、左團次の生前は他の俳優の上演を許さなかった。「修禅寺物語」は1909年に完成し、1911年に明治座で初演。1927年にパリのシャンゼリゼ座でフィルマン・ジェミエによっても上演された。

1921年に「俳諧師」を書き、翌年新富座で上演、中村吉右衛門が演じる。その後吉右衛門のために「時雨ふる夜」「権三と助十」「風鈴蕎麦屋」などを書いた。

回顧記『ランプの下にて』は、「過ぎにし物語」の題で『新演芸』誌に、1920年から22年と関東大震災をはさみ24年から25年にかけ連載された。続いて『歌舞伎』誌に1929年から30年に前半部を再録。1935年に『明治劇談 ランプの下にて』が刊行、1942年に大東出版社の「大東名著選」に、『歌舞伎談義』と共に『明治の演劇』の題で出版され、「戦時下、青少年の情操陶冶に資する」として文部省推薦本となった。

綺堂自身は、劇評家時代から俳優とは私的な付き合いや楽屋への出入りもせず、劇作に携わって以降も、二代目左團次も含めそれらの事は変わらなかったため、俳優の私生活には筆が及んでない。1949年に再版の同光社版には、綺堂による「明治演劇年表」が入っている。

養嗣子の岡本経一編『綺堂年代記』(青蛙房、新版2005年)には、劇作家としての詳しい解説がなされている。
半七捕物帳

1916年にコナン・ドイルシャーロック・ホームズ」を読み刺激され探偵小説への興味が起き、自分でも探偵ものを書こうと考えたが、現代ものを書くと西洋の模倣になりやすいので純江戸式で書くことにして3篇を執筆、『文芸倶楽部』から連載物を依頼され、これを「半七捕物帳」の題で渡し、翌年1月号から連載された。これが好評となり執筆を続けた。1919年から「半七聞書帳」の題で、半七が先輩の話を聞き書きする体裁で9編を書き、一旦執筆を終了。後単行本化されて人気が高まり、1924年の『苦楽』創刊の際、川口松太郎の依頼で続編執筆を依頼されるが、半七はもう書くことが無いと断り、それ以外の昔話ということで、半七老人の知人の三浦老人から江戸期の奇妙な話を聞くという「三浦老人昔話」を連載。1934年に、半七のファンだと言う講談社野間清治社長の意向で『講談倶楽部』から依頼で半七もの執筆を再開。65歳まで書き続け、1937年までに計69作品となった。

お文の魂 - 半七もの最初の短編[6]。語り手のわたしはまだ子供であり、「Kのおじさん」という知人から半七の活躍を間接的に聞く体裁になっている。

石灯籠 - 半七もの第二短編。半七が手掛けた最初の事件[7]。成人した「わたし」が引退した半七から、直接に聞いた最初の話でもある。


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