岡本玄冶
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おかもと げんや
岡本玄冶
岡本玄冶像
藤浪剛一『医家先哲肖像集』(1936)より
生誕天正15年(1587年
京都
死没正保2年4月24日1645年5月19日
墓地祥雲寺
別名宗什、諸品
啓迪庵、啓迪院
時代安土桃山時代 - 江戸時代前期
配偶者曲直瀬玄朔の娘
子供岡本玄琳、岡本寿仙、曲直瀬玄与室、三女
親岡本重信、薄諸光の娘
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岡本 玄冶(おかもと げんや)は、江戸時代前期の医者。名は宗什、のち諸品と改める。
生涯

幼いころより医書を学んだが、慶長7年(1602年)から曲直瀬玄朔の門下となり、慶長15年(1610年)には学頭となって後身への教授を行うようになった。後に玄朔から著書と共に奥義を唯一伝授され、啓迪庵の号を許された。また晩年の徳川家康に謁見している。元和4年(1618年)、法眼に叙任。

元和9年(1623年)、徳川秀忠家光が上洛した際にこれに仕え、家光に従って江戸に下向した。寛永2年(1625年)、家光の日光社参に従った際、家光が喉を病んだ事があったが、薬を処方して平癒させている。寛永4年(1627年)からは隔年で江戸に出仕し、寛永5年(1628年)、秀忠の推薦で法印に叙され、また院号を許されて啓迪院と称した。寛永10年(1633年)、秀忠が病に侵された際、他の侍医が匙を投げる中でこれを平癒させた。寛永13年(1636年)、徳川和子に病があった際に上洛した。この時、京都朝鮮通信使の三使と交流があり、以後も文通を行っている。また京都所司代板倉重宗とも親しかった。寛永14年(1637年)、家光の病を平癒させたため、翌年に山城国葛野郡武蔵国都筑郡に1000石を与えられた。

以後も江戸と京都を往復し、洛中では天皇の診療をする事もあった。また江戸では日本橋北に屋敷を持ち、後の玄冶店の語源となった。家督は子の玄琳が継承。著書に「灯下集」「玄冶配剤口解」「玄冶方考」「通俗医海腰舟」「傷寒衆方規矩」などがある。
出典

寛政重修諸家譜」巻第593

国史大辞典』第2巻(吉川弘文館1980年


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