岡本柳之助
[Wikipedia|▼Menu]

岡本 柳之助
岡本柳之助
生誕1852年9月27日
武蔵国
死没 (1912-05-14) 1912年5月14日(59歳没)
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴1874年 - 1878年
最終階級 少佐
指揮東京鎭台予備砲隊大隊長
除隊後朝鮮宮内府兼軍部顧問
テンプレートを表示

岡本 柳之助 (おかもと りゅうのすけ、嘉永5年8月14日1852年9月27日) - 1912年明治45年)5月14日)は、紀州藩出身の国粋主義者、大陸浪人陸軍少佐、朝鮮宮内府兼軍部顧問。本姓は諏訪。竹橋事件に関与して官職剥奪。乙未事変を主導[1]辛亥革命が勃発すると上海に渡り、当地で客死した。は東光。
経歴

紀州藩の世臣・諏訪新右衛門の第二子。江戸藩邸に生まれる。岡本家の養子となり岡本姓を名乗る。幼少より文武の才に富み、15歳で幕府の砲術練習所に学び、16歳で江戸定府紀州藩砲兵頭となり、彰義隊に加わって佐幕派として官軍に抗するが、敗れて伊勢松坂に送致される。維新後の藩政改革で津田出鎌田栄吉陸奥宗光に見出され、東上して1874年(明治7年)に陸軍大尉となる。1875年(明治8年)の江華島事件の際に朝鮮に派遣された黒田清隆に随行して渡韓。1877年(明治10年)の西南戦争では、大阪鎭台の参謀大尉として山路元治と共に九州各地に転戦。戦功により少佐に進み、東京鎭台予備砲兵第一大隊長となる。

竹橋事件では、内山定吾少尉ら部下に押され参加。しかし当日の決起直前に突如静観の姿勢へと転換、午後10時飛鳥山への行軍を開始した。暴動発生後も参加を勧める部下を抑え、そのまま飛鳥山で宿泊した[2]。しかし、結局は竹橋兵営の隊長として暴動を知りながら上官に報告もせず、暴動勃発後も鎮圧にあたらなかったとして官職を追放[3]正七位及び勲四等を褫奪された[4][5][6][7]。これらの行動について、反乱を通して当時西南戦争に関与したとして投獄されていた陸奥宗光を救出しようとしたものの、直前に津田出に諌められ反乱を思いとどまったとの説もあるが[8]、当時津田と面会した事は実証されていない[9]

その後、同郷の鎌田栄吉から福澤諭吉を紹介され、門人となる。福澤邸で書生を務めながら、ともに官職を追放された松尾三代太郎慶應義塾に学び、金玉均朴泳孝と親交を深める。次いで日蓮宗の新井日薩と日蓮主義を研究し、南方熊楠とも親交を持った。井上角五郎らと共に金玉均を追って上海に渡り、次いで大鳥圭介公使や陸奥宗光外相と共に漢城に渡り、袁世凱との折衝に努めた。陸軍の福島安正と謀り、雲?宮より大院君を奉じて朝鮮内部の改革を主導、朝鮮政府の軍事顧問に就任した。

晩年は中国の革命を援助しながら東洋政策の研究と『日魯交渉北海道史稿』『政教中正論』などを著し、北海道史や日蓮仏教の研究などを行った。1912年(明治45年)に清国上海を視察中、急死した[10]
乙未事変

1895年(明治28年)、大院君は、岡本が用意したクーデター布告である「国太公告論文」を承認[11]。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}「いざ入城し、キツネを臨機処分せん」として大隊の指揮官に立ち、次に李周会と禹範善の訓練隊が続き、時の駐韓公使三浦梧楼と気脈を通じて、一部の志士や朝鮮人訓練隊などと共に10月8日の夜、大院君を擁して王城に乗り込み[要出典]、閔妃暗殺された[12]。この事件で退韓命令を受け、帰国後、岡本を含む事件容疑者は広島監獄署に勾留されたが、翌年1月の予審において首謀と殺害に関しては証拠不十分で全員免訴となり放免された。大院君は、岡本の同行を求めた孫の李?鎔に対し「お前だけは居残り、万一この挙が失敗すれば日本に亡命し、後日を期せよ」と述べたという[11]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:28 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef