岡本愛彦
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森光子と。1960年

岡本愛彦(おかもと よしひこ、1925年10月11日 - 2004年10月24日)は、日本映画監督テレビドラマ演出家ジャーナリスト
人物

1925年10月11日に、日本統治時代の朝鮮[1][2]または鳥取県で生まれる[3][4]陸軍士官学校在学中に敗戦を迎え、1946年には日本社会党へ入党。1950年に慶應義塾大学を卒業[3]し、NHK東京放送局に放送記者・社会報道番組ディレクターとして入局。その後、鳥取・東京・大阪と放送局を転々とし、後にテレビドラマを手掛ける様になる。1957年にNHKを退社して、ラジオ東京(KRT、現・東京放送ホールディングス / TBSテレビ)へ入社する[3]

黎明期のテレビドラマにおいて、社会性のある作品を中心に活躍した演出家である。特に、1958年の『私は貝になりたい』、1959年の『いろはにほへと』を演出し、何れも芸術祭文部大臣賞(現在の大賞)を受賞した。

1959年に女優の森光子と結婚したが、1963年に離婚した。同年TBSを退社。

1970年日活の映画『愛の化石』で監督を担当し、1974年の富島健夫原作の映画『青春の海』では監督・製作、および野口溪と脚本を担当した。その後、『告発 在日韓国人政治犯レポート』、『ボク、走りたい!』、『世界人民に告ぐ!』などの、日本における在日朝鮮人をテーマにした映画の監督を担当した[2][4]

以降は、大阪経済法科大学教授、明星大学日本文化学部教授を歴任し、映像論・放送論を担当した。晩年には日本ジャーナリスト同盟顧問となる。

2004年10月24日前立腺癌のため、神戸市の病院で死去[3]
主な作品
テレビ
NHK時代

モダン寄席(脚本:
花登筺) - NHK大阪放送局の試験放送番組

彼は先輩(1953年9月) - テレビドラマ演出第1作

健の犯罪(1954年1月21日、演出助手)

追跡(1955年11月26日、大阪スタジオディレクター) - 東京・大阪4元中継。第10回芸術祭大賞受賞作品[5]

ひょう六とそばの花 狂言様式による(1956年、プロデューサー) - 第11回芸術祭奨励賞受賞作品[6]

絵本(1956年12月13日)

愛のかたみ(1957年3月4日)

KRT → TBS時代

サンヨーテレビ劇場

失格女房とその良人(1958年1月)

私は貝になりたい(1958年10月31日、脚本:橋本忍) - 第13回芸術祭大賞受賞作品

いろはにほへと(1959年11月20日、脚本:橋本忍) - 第14回芸術祭大賞受賞作品

ドキュメント・フィルム 日本1960(1960年11月25日、監修:土門拳) - 第15回芸術祭参加作品


おかあさん

第74回「壁と爪」(1961年4月12日)

第119回「青い家」(1962年1月25日)


東芝日曜劇場

露地の奥(1961年7月23日、演出補助、演出:佐分利信

四つの顔(1962年8月12日)


近鉄金曜劇場

日独合作ドラマ 失われた顔(1961年11月10日) - 北ドイツ放送協会との共同制作

毒薬(1963年3月8日、脚本:菊田一夫


花は桜子(1963年4月2日 - 12月24日)

フリー時代

赤い火を何時か(1963年11月28日、
テレビ西日本、脚本:国弘威雄

孤愁の岸 宝暦治水始末記(1964年4月12日、東京12チャンネル) - 東京12チャンネル(現・テレビ東京)開局当日に放送

ここに泉あり(1964年7月20日 - 7月24日、東京12チャンネル、脚本:田井洋子

剣(日本テレビ

第27回「首斬り浅右衛門」(1967年10月16日、脚本:橋本忍)

第40回「魔性」(1968年1月15日、脚本:中島丈博・国弘威雄)


お庭番(日本テレビ)

第9 - 12話「白い宝」(1968年4月29日 - 5月20日)

第21・22話「忍び化粧 前編・後編」(1968年7月22日 - 7月29日)


浮世絵 女ねずみ小僧(1971年、フジテレビ

新聞が死んだ日(1980年12月11日、テレビ朝日

映画


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