岡本太郎
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1953年昭和28年、42歳)
自宅アトリエにて撮影
誕生日1911年(明治44年)2月26日
出生地 日本神奈川県橘樹郡高津村大字二子(現在の川崎市高津区二子
死没年1996年(平成8年)1月7日(満84歳没)
死没地 日本東京都新宿区信濃町35(慶應義塾大学病院[1]
国籍 日本
運動・動向抽象美術シュールレアリズム原始美術
芸術分野絵画彫刻陶芸書道写真
教育東京美術学校(現在の東京芸術大学)中退
パリ大学哲学科履修
代表作『傷ましき腕』
『重工業』
明日の神話
『マミ会館』
太陽の塔』ほか
受賞芸術文化勲章
(フランス1984年、1989年)
影響を受けた
芸術家岡本一平岡本かの子
(父母)
マルセル・モース
パブロ・ピカソ
ミルチャ・エリアーデ
ディエゴ・リベラ
ダビッド・アルファロ・シケイロス
影響を与えた
芸術家ゲルダ・タロー
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岡本 太郎(おかもと たろう、1911年明治44年〉2月26日 - 1996年平成8年〉1月7日)は、日本芸術家。血液型はO型[2]

1930年昭和5年)から1940年(昭和15年)までフランスで過ごす。抽象美術運動やシュルレアリスム運動とも接触した。
経歴
生い立ち

岡本太郎(以下岡本と表記)は神奈川県橘樹郡高津村大字二子(現在の川崎市高津区二子)で、漫画家岡本一平歌人で小説家・かの子との間に長男として生まれる。父方の祖父は町書家の岡本可亭であり、当時可亭に師事していた北大路魯山人とは、家族ぐるみの付き合いがあった。

父・一平は朝日新聞で漫画漫文という独自のスタイルで人気を博し[注 1]、「宰相の名は知らぬが、一平なら知っている」と言われるほど有名になるが、付き合いのため収入のほとんどを酒代に使ってしまうほどの放蕩ぶりで、家の電気を止められてしまうこともあった。

母・かの子は、大地主の長女として乳母日傘で育ち、若いころから文学に熱中。 お嬢さん育ちで、家政や子育てが全く出来ない人物だった。岡本が3?4歳の頃、かまって欲しさにかの子の邪魔をすると、彼女は太郎を兵児帯で箪笥にくくりつけたというエピソードがある。また、かの子の敬慕者で愛人でもある堀切茂雄を一平の公認で自宅に住まわせていた。そのことについて、かの子は創作の為のプラトニックな友人であると弁明していたが、実際にはそうではなく、自身も放蕩経験がある一平は容認せざるを得なかった。後に岡本は「母親としては最低の人だった。」と語っている[要出典]が、生涯、敬愛し続けた。
少年時代

家庭環境の為か、岡本は 1917年大正6年)4月、東京青山にある青南小学校に入学するもなじめず一学期で退学。その後も日本橋通旅籠町の私塾・日新学校、十思小学校へと入転校を繰り返したが、慶應義塾幼稚舎で自身の理解者となる教師、位上清に出会う。岡本はクラスの人気者となるも、成績は52人中の52番だった。ちなみにひとつ上の51番は後に国民栄誉賞を受賞した歌手の藤山一郎で、後年岡本は藤山に「増永(藤山の本名)はよく学校に出ていたくせにビリから二番、オレはほとんど出ないでビリ、実際はお前がビリだ」と語ったという。

絵が好きで幼少時より盛んに描いていたが、中学に入った頃から「何のために描くのか」という疑問に苛まれた。慶應義塾普通部を卒業後、画家になる事に迷いながらも、東京美術学校へ進学した。
滞仏生活とピカソの衝撃

一平が朝日新聞特派員として、ロンドン海軍軍縮会議の取材に行くことになり、岡本も東京美術学校を休学後、親子三人にかの子の愛人の青年二人を加えた一行で渡欧。一行を乗せた箱根丸は1929年昭和4年)神戸港を出港、1930年(昭和5年)1月にパリに到着。以後約10年間をここで過ごすことになる[注 2]

フランス語を勉強するため、パリ郊外のリセ(日本の旧制中学に相当)の寄宿舎で生活。語学の習得の傍ら、1932年頃、パリ大学(ソルボンヌ大学)においてヴィクトール・バッシュ教授に美学を学んでいる。「何のために絵を描くのか」という疑問に対する答えを得るため、1938年頃からマルセル・モースの下で絵とは関係のない民族学を学んだといわれている。

1932年(昭和7年)、両親が先に帰国することになり、パリで見送る。かの子は1939年(昭和14年)に岡本の帰国を待たずに死去したため、これが今生の別れとなった。

同年、芸術への迷いが続いていたある日、たまたま立ち寄ったポール=ローザンベール画廊でパブロ・ピカソの作品《水差しと果物鉢》[注 3]を見て強い衝撃を受ける。そして「ピカソを超える」ことを目標に絵画制作に打ち込むようになる。岡本は、この時の感動を著書『青春ピカソ』(1953年)において「私は抽象画から絵の道を求めた。(中略)この様式こそ伝統や民族、国境の障壁を突破できる真に世界的な二十世紀の芸術様式だったのだ」と述べている。

1932年、ジャン・アルプらの勧誘を受け、美術団体アプストラクシオン・クレアシオン協会のメンバーとなる。そのメンバーにはピート・モンドリアンワシリー・カンディンスキーら錚々たる大家がいた。岡本はその協会の年鑑で、「『形』でない形、『色』でない色をうち出すべきだ」とのメッセージを投げかけていた[3]

親交のあった戦場カメラマンロバート・キャパの公私にわたる相方であった報道写真家ゲルタ・ポホリレに岡本の名前が1936年よりビジネスネーム、ゲルダ・タローとして引用された。しかしゲルダの活動期間はとても短く1937年スペイン内戦のブルネテの戦いの取材に向かったが、戦場の混乱で発生した自動車事故で受けた傷がもとで死去した。1938年シュールリアリズムの創始者アンドレ・ブルトン制作の「シュール・レアリスム簡易辞典」[4]に「傷ましき腕」が掲載された。この絵画を契機に、岡本は美術団体アプストラクシオン・クレアシオン協会を脱退し、パリ大学ソルボンヌ校の哲学科に聴講生として通うようになる。さらに民族学科に移り、そこで文化人類学者マルセル・モース教授と出会い、彼の講義から多大な影響を受ける。やがて岡本は思想家ジョルジュ・バタイユとも出会い、盟友として親交を深めた[3]
兵役と戦後

1940年(昭和15年)、ドイツのパリ侵攻をきっかけに日本へ帰国する。帰国後、滞欧作《傷ましき腕》などを二科展に出品して受賞、個展も開く。

1942年(昭和17年)、第二次世界大戦下の軍備増強の為、補充兵役召集され大日本帝国陸軍兵として中国戦線へ出征。岡本は最下級の陸軍二等兵扱いだったが、高年齢である30代という事もあり、厳しい兵役生活を送ったと著書で回想している。また、この頃上官の命令で師団長の肖像画を描いている。

1945年(昭和20年)、日本の降伏により太平洋戦争が終結。岡本は長安で半年ほど俘虜生活[5]を経たのち帰国、佐世保から東京に到着するが、自宅と作品は焼失していた。東京都世田谷区上野毛にアトリエを構え、ふたたび制作に励む。1947年(昭和22年)、岡本は新聞に「絵画の石器時代は終わった。新しい芸術は岡本太郎から始まる」という宣言を発表、当時の日本美術界に挑戦状を叩きつけた。

1948年(昭和23年)、 花田清輝らとともに「夜の会」を結成。会の名は岡本の油彩画『夜』から取られた。前衛芸術について論じ合う会で、ほかに埴谷雄高安部公房らが参加した。またこの頃、平野敏子と出会った。敏子は後に秘書・養女となり、岡本が死去するまで支え続けた。

1950年(昭和25年)には植村鷹千代と江川和彦、瀧口修造、阿部展也、古沢岩美小松義雄村井正誠北脇昇福沢一郎らと日本アヴァンギャルド美術家クラブ創立に参加1951年(昭和26年)11月7日、東京国立博物館縄文火焔土器を見て衝撃を受ける。翌年、美術雑誌『みずゑ』に「四次元との対話―縄文土器論」を発表。この反響によって、日本美術史は縄文時代から語られるようになったともいわれている[6]。また琉球諸島東北地方の古い習俗を紹介した。

1954年(昭和29年)、東京都港区青山に自宅兼アトリエを建て[注 4]、生活と制作の拠点とする。同年、当時光文社社長だった神吉晴夫から、「中学2年生でも理解できる芸術の啓蒙書を書いてくれ」と依頼され、『今日の芸術 時代を創造するものは誰か』を執筆・出版。芸術は小手先の問題ではなく、生きることそのものであると説くとともに、従来の芸術観を批判し、ベストセラーになった。
メキシコ滞在

1960年代後半、メキシコを訪れた岡本は、ダビッド・アルファロ・シケイロス[注 5]などによる壁画運動から大きな影響を受け、同地に滞在中、現地のホテル経営者から壁画の制作依頼を受ける。これがのちに岡本の代表作のひとつとされる『明日の神話』となる[7]
太陽の塔太陽の塔詳細は「太陽の塔」および「明日の神話」を参照

1970年(昭和45年)に大阪で万国博覧会が開催されることが決まり、通産官僚堺屋太一ら主催者(国)は紆余曲折の末、テーマ展示のプロデューサー就任を要請した。岡本は承諾すると、「とにかくべらぼうなものを作ってやる」と構想を練り、出来上がったのが『太陽の塔』であった。

この日本万国博覧会は各方面に影響を与えた。1975年(昭和50年)、『太陽の塔』の永久保存が決定。現在も大阪万博のシンボルとして愛されている。

同時期に制作されたのが、前述の『明日の神話』であり、制作依頼者である実業家の破産の影響で長らく行方不明となっていたが、21世紀に入り発見される[8]
テレビの人気者として

岡本は、テレビ放送草創期の1950年代から当時のバラエティ番組であったクイズ番組などに多数出演している。

1970年代以降には、日本テレビバラエティ番組鶴太郎のテレもんじゃ』にレギュラー出演。冒頭でリヒャルト・シュトラウスツァラトストラはかく語りき』を鳴り響かせ、ドライアイスの煙が立ちこめる中から、「芸術は爆発だ」「何だ、これは!」などと叫びながら現れる演出が人気を博すと、これらのフレーズは流行語にもなった[注 6]。また番組内で出演した子供たちの絵を批評、眼鏡に適う作品を見出した際には、目を輝かせた。さらに、この番組内で共演した片岡鶴太郎の芸術家としての才能を見出している。

1987年(昭和62年)にはテレビドラマにも出演。NHKばら色の人生』に俳優(学校校長役)としてレギュラー出演した。
晩年、没後南青山にある岡本太郎記念館川崎市多摩区桝形にある川崎市岡本太郎美術館


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