この存命人物の記事には検証可能な出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。
出典検索?: "岡本吉起"
おかもと よしき
岡本 吉起
生誕 (1961-06-10) 1961年6月10日(62歳)
愛媛県 南宇和郡 愛南町
(旧:一本松町)
国籍 日本
出身校創造社デザイン専門学校
職業ゲームプロデューサー
YouTuber
OKAKICHI SDN.BHD 取締役
株式会社ケイブ 取締役
公益財団法人 日本ゲーム文化振興財団 理事長
テンプレートを表示
岡本 吉起(おかもと よしき、1961年6月10日[1] - )は、ゲームプロデューサー。OKAKICHI SDN. BHD.取締役、株式会社でらゲー ゲームプロデューサー、株式会社ケイブ取締役、公益財団法人日本ゲーム文化振興財団[2]理事長。YouTuber、元カプコン専務取締役。元ゲームリパブリック代表取締役社長。
愛媛県南宇和郡愛南町(旧・一本松町)出身。創造社デザイン専門学校卒業。 1981年に[1]コナミにイラストレーターとして入社[3]したが、デザインではなく企画の部署に回される。出世作となるアーケードゲーム『タイムパイロット』は本人の談によれば、当時の上司が企画した作品(本人曰く自動車教習所をモチーフにしたドライブゲームとの事)を開発するフリをしながら完全に独断で作り上げたものだという[4]。後戻りできない段階でようやく事後報告として上司に披露[4]。報連相無しのこの行動は当然大いに怒りを買ったが[4]、そのまま発売したところ記録的な大人気となり、上司の態度を一変させた。他に『ジャイラス』等を開発。 1983年にコナミを退職するが、本人によれば「元々10月頃発売予定だったゲームを最後にコナミを退社する予定だった」ものの、8月に夏休みを取っている間に当時同僚だった有馬俊夫[5](後に『魔界村』等を開発)が社長に「岡本も連れて辞める」と見得を切ったため、その煽りを食って懲戒免職になりかけた[6]。最終的に自主退職の形にはなったものの、会社に置いてあった私物(書籍約300冊など)は返還されなかったという[6]。 その後同年に[1]、有馬[5]や藤原得郎らと共に創業間もないカプコンに入社。辻本憲三社長と直談判の結果、初任給約35万円からのスタートであった(直前のコナミ所属時の初任給は額面上13万円+皆勤手当5千円で翌年の昇給は5510円[7])。なお、一緒に辞めた有馬[5]はともかく、藤原らについては結果としてコナミから引き抜く格好になったため、コナミからは出禁を言い渡された[6]。 当時、東京都新宿区歌舞伎町の松宝ビルに入居していた東京開発室(現在のカプコン東京支社とは異なる)の責任者として、人材採用から開発までを一手に担う。この時期に採用した人材に、後に『ストリートファイター』等のキャラクターデザインで有名になるあきまんがいる。 その後、東京開発室の閉鎖とともにカプコン大阪本社に引き戻され、第三開発室の責任者となる。『ソンソン』や『エグゼドエグゼス』『ガンスモーク』『サイドアーム』『麻雀学園 卒業編』などのディレクションを担当するが、『ロストワールド』を最後に開発の現場からは退き、その後はプロデューサーや広報担当として『ストII』シリーズ等の多数のカプコンのヒットタイトルの輩出に貢献しその手腕を発揮した。
来歴
コナミ時代
カプコン時代