岡崎電気軌道
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三河鉄道株式会社
種類株式会社
本社所在地 日本
愛知県碧海郡刈谷町大字刈谷字東日成25[1]
設立1912年(明治45年)5月30日[2]
業種鉄軌道業
事業内容旅客鉄道事業、バス事業、旅館事業 他[2]
代表者社長 米山辰夫[2]
資本金4,687,500円[2]
発行済株式総数93,750株[3]
主要株主

鉄道電気証券 13,162株[3]

神谷傳兵衛 9,241株[3]

平野常樹 3,000株[3]

横井徳平 1,172株[3]

特記事項:上記データは1940年(昭和15年)11月1日現在[2]
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岡崎電気軌道株式会社
種類株式会社
本社所在地 日本
愛知県岡崎市康生町641番地
設立1898年(明治31年)2月14日[4]
業種鉄軌道業
代表者専務取締役 須藤庄吉
資本金1,000,000円
発行済株式総数20,000株
特記事項:合併直前の状況
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三河鉄道株式会社(みかわてつどう)は、愛知県にかつて存在した鉄道事業者である。1941年に名古屋鉄道に合併された。

本項では、1927年に三河鉄道に合併された岡崎電気軌道株式会社(おかざきでんききどう)についても合わせて記述する。
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この節の加筆が望まれています。
主に: 愛電との交渉決裂から名鉄合併までの会社史 (2016年7月)

1910年11月に刈谷出身の代議士三浦逸平や刈谷の有力者大野介蔵、太田平右衛門、高野松次郎らと大阪の才賀電機商会の才賀藤吉ら計31人が発起人となって、大浜町から高浜町を経て、刈谷駅東海道線に接続し碧海郡役所のある知立町を結ぶ碧海軽便鉄道[5](軌間762mm 動力蒸気)を申請し、1911年7月に免許が下付された。

また、1911年3月には、才賀、井上徳三郎、三浦逸平らによる知挙軽便鉄道(軌間762mm 動力蒸気)が資本金36万円で申請[6]し、 同年8月に知立 - 挙母(豊田市)の敷設免許が下付された[7]

鉄道建設の合理性から合併が妥当と判断され、1912年5月に創立総会が開催され、社名を三河鉄道とすること、軌間を762mmから1067mmに変更すること、武山勘七を社長とすること、資本金を50万円とすることが可決された[4]

1913年1月刈谷から大浜港までの工事に着手したが、不況により株式の払込が不調であり、また株主から経営者に対する不満から武山勘七は社長を辞任。久保扶桑にかわった。1914年2月に刈谷新駅 - 大浜港駅間が、1915年10月刈谷新駅 - 知立駅(現在の三河知立駅)間が開業して旧碧海軽便鉄道区間が全通した。ただその間社内では1914年9月に久保が死去、さらに事業不振の責任をとって役員全員が辞任するという事態が生じていた。困った株主達は発足当初から株主として参加していた神谷傳兵衛[8]に社長の就任を要請し1916年4月になり神谷は社長となった[9][8]

1916年11月に臨時株主総会が開催され、越戸まで路線を延長するため資本金を125万円にすることが可決された[4][8]。そして神谷自ら沿線町村をまわり株の引受を依頼し応募は順調にすすんだ。路線は1920年7月から順次開通して同年中に挙母駅に達し、1922年1月に越戸駅まで開通した。開通してまもなく財政を立て直した神谷は4月に死去した[10]。しばらくの間社長は空席状態が続き、専務に東京渡辺銀行の渡辺勝三郎がついた[注釈 1]。1924年2月には増資して資本金を525万円とすることにして北は足助町、南は蒲郡町への延長と既設線の電化を決定した[12]。1926年11月になり2代目神谷傳兵衛が社長に、専務には電気鉄道経営の専門家として伊那電気鉄道社長の伊原五郎兵衛がついた[13]。1926年9月に神谷傳兵衛の出身地である松木島まで延長され、その功績をたたえて駅名を神谷とした。その後1928年には三河吉田駅(現在の吉良吉田駅)、1929年には三河鳥羽駅、1936年には蒲郡駅まで開通した。

一方、1927年7月に岡崎電気軌道を合併して岡崎進出を果たし[14]、資本金は625万円となっていたが、この時期の三河鉄道は路線延長や電化による設備投資により多額の債務を抱えており、くわえて不況に見舞われることになり経営は苦境に立っていた[注釈 2]

このため三河鉄道は愛知電気鉄道(愛電)との合併を画策し、東邦電力に斡旋を依頼した。1930年4月に合併契約書の調印にこぎつけたが[4]、愛電の経理担当者が三河鉄道が粉飾決算をして利益を計上していることを発見したため大問題となり、愛電は合併契約破棄を宣言した。窮地に立った神谷らは私財提供による粉飾決算の是正を申出たが愛電の藍川清成はこれを拒否。1931年6月の株主総会で合併取消を決議してしまった[16][注釈 3]

この粉飾決算のなかには三河鉄道が出資している新三河鉄道への融資金の流用があった。1929年に新三河鉄道は日本興業銀行より40万円の融資を受けたがうち20万円を三河鉄道が流用していた。その後10万円は返済したが10万円は返済不能となってしまい、このため1931年に興銀から派遣された半田貢[注釈 4]、鈴木均平が取締役[19] となり三河鉄道は銀行管理となってしまう[20]


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