岡崎城
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この項目では、三河国愛知県東部)のについて説明しています。

阿波国徳島県)の城については「撫養城」をご覧ください。

相模国神奈川県)の城[1]については「岡崎城 (相模国)」をご覧ください。

伊予国の城については「岡崎城 (伊予国)」をご覧ください。

logo岡崎城
愛知県
再建天守
別名龍城
城郭構造梯郭式平山城
天守構造複合連結式望楼型3重3階(1617年築・非現存)
復興(1959年昭和34年)再・RC造
築城主西郷稠頼・頼嗣(三河国守護仁木氏の守護代)
築城年享徳元年(1452年)(享徳4年説あり)
主な改修者松平清康田中吉政本多忠利
主な城主西郷氏松平氏田中氏本多氏水野氏
廃城年明治6年(1873年
遺構石垣、堀
指定文化財岡崎城跡(岡崎市指定史跡)[1]
再建造物復興天守、大手門、東隅櫓、土塀
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度57分22.71秒 東経137度9分31.7秒 / 北緯34.9563083度 東経137.158806度 / 34.9563083; 137.158806 (岡崎城)座標: 北緯34度57分22.71秒 東経137度9分31.7秒 / 北緯34.9563083度 東経137.158806度 / 34.9563083; 137.158806 (岡崎城)
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岡崎城(おかざきじょう)は、三河国岡崎藩(現在の愛知県岡崎市康生町)にあった日本の城徳川家康の生地である。別名、龍城。

戦国時代から安土桃山時代には松平氏の持ち城、江戸時代には岡崎藩の藩庁であった。岡崎城は当初、「岡竒城」と記された。また、『三河国名所図会』には、「岡崎は享禄(1528年享禄元年) - 1531年(享禄4年))以来の名號にして、其以前は菅生郷なり、」と記載されている[2]

1959年昭和34年)に天守が復興された。
概要破却前の岡崎城天守の古写真破却前の岡崎城の城郭模型西郷稠頼の居館「平岩城」は菅生川南岸の明大寺(現・岡崎市上明大寺町2丁目)にあった。ペデストリアンデッキの広場と「オト リバーサイドテラス」が連結する付近とされる[3][4]

三河国仁木氏の守護代であった西郷稠頼(つぎより)は永享年間(1429年?1441年)に、菅生川(乙川)南岸の明大寺付近に居館を構えた[5][注 1]。この居館は「平岩城」と呼ばれた。位置は、岡崎市上明大寺町2丁目のペデストリアンデッキの徳川家康像が置かれた広場辺りであることが判明している[3][注 2]

1452年享徳元年)から1455年康正元年)にかけて、西郷稠頼は、菅生川北岸の龍頭山(標高約24メートル)と呼ばれる半島状段丘の先端に、北方に対する砦を築いた。築城当時は、菅生川南に東海道が通り、明大寺が「岡崎」と呼ばれた。つまり、西郷氏の居館が旧岡崎城に当たることとなる[5]

3代目当主の西郷信貞(松平昌安)は明大寺の平岩城を居所として、岡崎市南部および大草城愛知県幸田町北部)を支配した[注 3]

1524年大永4年)、松平清康の命を受けた、家臣大久保忠茂等は奇襲により一夜にして、信貞の持城である山中城を落城。清康は信貞に岡崎城を明け渡させ、本拠を安城から岡崎へ移した[10]

1530年?1531年享禄3?4年)頃、清康は明大寺より龍頭山の砦へと本拠を移し、本格的な岡崎城を構えた。これが現在の岡崎城である。清康は、明大寺の地から岡崎松平家菩提寺の大林寺を城北に、安城からは甲山寺を城の北東にそれぞれ移し、菅生川の南に龍海院を建て周辺を整備した[11][5][10]

龍頭山の岡崎城は、山頂に本丸が置かれた平山城として築かれていたが、本多康重から3代忠利(1600年慶長5年) - 1645年正保2年))にわたる改修によって平城となっている[12]。この際、本丸に複合連結式望楼型3重3階の天守1617年元和3年))が建てられた。

本丸の北方に持仏堂曲輪、その北方下に二の丸、その北方に北曲輪、二の丸の東側には三ノ丸と東曲輪、その東に備前曲輪と大手門があった浄瑠璃曲輪、本丸と二の丸の西方下に坂谷曲輪、その西に白山曲輪と搦手口に当たる稗田門があった稗田曲輪、本丸の南は、菅生川沿いに菅生曲輪があり、それに、本丸から北側へ6重、西側へ4重の外堀を廻らせていた。

存城当時の東海地方の城では3番目に数えられる規模であったが、1873年明治6年)の廃城令によって廃城となった。城内の天守以下の建物及び土地を払い下げ、現在は一切の建物を失い、本丸と周辺の持仏堂曲輪、隠居曲輪、風呂谷等の曲輪と石垣、堀などの遺構を残すのみである。敷地は龍城神社岡崎公園として整備された[13]

1959年昭和34年)3月、天守が復興された。詳細は「復興天守」を参照

2010年平成22年)3月、東隅が再建された。望楼式二重櫓と呼ばれる木造2階建で、入り母屋造りの屋根は、岡崎藩主を務めた本多氏家紋立ち葵が刻まれた本瓦葺き。壁は白漆喰塗り。高さ約9.4メートルで、かつて東曲輪だった岡崎公園駐車場の南東角に位置する。1781年天明元年)の「岡崎城絵図」を基本資料としているが、東隅櫓の図面は現存しなかったため、愛媛県松山市に現存する同時代の松山城の野原櫓などの形式を参考にして、江戸時代の工法を忠実に再現し建設した。城内で発掘された石材を使い、空積みの石垣も築いた。隣接して同時に整備した長さ約45メートルの城壁と合わせ、総工費は約1億円であった。

2022年(令和4年)5月24日、市は、翌年の大河ドラマどうする家康』の放送にあわせ、岡崎城の展示リニューアルを行うと発表した。1?4階の展示と5階展望台の刷新と外壁塗装、トイレの増設、照明設備のLED化などを行う。同年6月16日から改装工事に入った。改装費は1億7,777万円[14][15]

2023年(令和5年)1月21日、リニューアルオープンした。大河ドラマの放送にあわせて同様に整備された三河武士のやかた家康館も「どうする家康 岡崎 大河ドラマ館」としてリニューアルオープンした。


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