日本の政治家岡崎 勝男おかざき かつお
岡崎勝男
生年月日1897年7月10日[1]
出生地 日本・神奈川県横浜市
没年月日 (1965-10-10) 1965年10月10日(68歳没)
出身校東京帝国大学経済学部卒業
前職外交官
国連大使
所属政党(民主自由党→)
(自由党→)
自由民主党
称号正三位
勲一等旭日桐花大綬章
配偶者岡崎島子
親族岡崎久次郎(兄)
前田利定(義父)
伊奈恭子(孫)
第72-74代 外務大臣
内閣第3次吉田第3次改造内閣
第4次吉田内閣
第5次吉田内閣
在任期間1952年4月30日 - 1954年12月10日
第6代 内閣官房長官
内閣第3次吉田内閣
第3次吉田第1次改造内閣
第3次吉田第2次改造内閣
在任期間1950年5月6日 - 1951年12月26日
衆議院議員
選挙区旧神奈川3区
当選回数3回
在任期間1949年1月24日 - 1955年1月24日
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岡崎 勝男
選手情報
ラテン文字Katsuo Okazaki
国籍 日本
競技トラック競技
(中距離走・長距離走)
種目880ヤード・1マイル・
5000m・10000m
大学東京帝国大学
生年月日1894年5月9日
出身地神奈川県横浜市
没年月日 (1965-10-10) 1965年10月10日(68歳没)
オリンピック5000m 途中棄権 (1924年)
10000m棄権(1924年)
地域大会決勝極東選手権競技大会
国内大会決勝日本陸上競技選手権大会
獲得メダル
岡崎 勝男(おかざき かつお、1897年(明治30年)7月10日 - 1965年(昭和40年)10月10日)は、日本の政治家、外交官。内閣官房長官(第6代)、外務大臣(第72-74代)、衆議院議員(3期)。第二次世界大戦後、吉田茂によって推進された対米協調外交において重要な役割を担った人物。また陸上競技選手(中距離走・長距離走)としての経歴も持つ。
来歴・人物[ソースを編集]
生い立ち[ソースを編集]
神奈川県横浜市生まれ[1]。米屋を営む岡崎安之助の十男[2]。23歳上の長兄に政治家で日米富士自転車を創業した岡崎久次郎がいる。
厚木中学(現神奈川県立厚木高等学校)、第一高等学校を経て、1922年東京帝国大学経済学部を卒業[1]。
外交官として[ソースを編集]
外務省に入省する。
カルカッタ総領事、外務省調査官、情報局情報官を経て外務省調査局長となる(1945年6月)。終戦後の8月19日、連合軍と降伏手続きの打ち合わせのため、河辺虎四郎参謀次長の随員としてマニラに飛ぶ。その後終戦連絡中央事務局長官として[3]、9月2日、ミズーリの艦上での降伏文書調印式に、外相重光葵を首席代表に日本側全権団随員で参列した。
「直接軍政」から「間接統治」へ[ソースを編集]降伏文書調印式に出席する岡崎(2列目左から2番目のシルクハットの人物)
ミズーリ号艦上での式典が終わって数時間後の午後4時過ぎ、終戦連絡委員会の鈴木九萬公使はGHQの参謀次長マーシャルより、翌9月3日に告示する予定の「三布告」について告げられた。その内容は以下の通りで、完全な直接軍政である。
一切の政府の権能を連合国最高司令官(SCAP)の権力の下に置き、英語を公用語とすること
SCAP命令への違反者は「占領軍裁判官」が処刑する権利を持つこと
占領軍の発行するB軍票を通貨として認めること
知らせを受けた外務省はすぐに岡崎を横浜のホテルニューグランド(占領当初のGHQは現在の横浜税関に置かれた)に派遣し、2日深夜マーシャルに面会の上三布告の公布差し止めを要請、同意取り付けに成功した。翌日には重光外相とマッカーサーの会見により、間接統治の方向で妥結をみた。しかし、三布告を撤回させられたGHQは岡崎を公職追放としてしまう。
政界へ[ソースを編集]
1945年10月、幣原内閣が発足し、吉田茂が外相になると大幅な人事異動を行った。これを機に岡崎は辞表を提出するが、その身の処し方が吉田の印象に残ったとみえ、直接電話で呼び戻され、しばらく吉田のアシスタントのような仕事をしていた。翌1946年第1次吉田内閣の発足とともに正式に外務省に復帰し、総務局長、事務次官を務める。なお事務次官時代に杉原千畝に退職勧奨を行っている。1949年第24回衆議院議員総選挙に、民主自由党から旧神奈川3区にて立候補し当選する。以後当選3回。