岡島艶子
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おかじま つやこ
岡島 艶子
1925年
本名仁科 つや (にしな-)
旧姓:小牧(こまき)
別名義岡島 つや子
岡嶋 艶子
生年月日 (1909-01-09) 1909年1月9日
没年月日 (1989-02-04) 1989年2月4日(80歳没)
出生地 日本 愛知県名古屋市中区桑名町(現在の同県同市同区錦二丁目及び丸の内二丁目辺り)
死没地 日本 京都府京都市北区
職業元子役女優
ジャンル新派劇映画時代劇現代劇サイレント映画トーキー)、テレビドラマ
活動期間1921年 - 1984年
配偶者仁科熊彦
著名な家族娘婿:川谷拓三
孫:仁科貴
孫娘:仁科扶紀
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岡島 艶子(おかじま つやこ、1909年1月9日 - 1989年2月4日)は、日本女優。本名は仁科 つや(にしな つや、旧姓は小牧)[1]

サイレント映画時代のスター女優で、松竹キネマ東亜キネママキノ・プロダクションなどの作品に出演し、純情かれんな娘役で活躍した。戦後は主に東映の作品で端役として出演した。夫は映画監督の仁科熊彦。娘婿は俳優の川谷拓三、孫は共に俳優の仁科貴仁科扶紀である。
来歴・人物
生い立ち

1909年(明治42年)1月9日愛知県名古屋市中区桑名町に、父・桃太郎と母・あさの娘として生まれる[2][3]。父は東京市の和菓子屋の長男で、後に大谷友四郎の名で歌舞伎俳優となり、名古屋・宝生座の座長を務めて名古屋の団十郎と呼ばれた[3]。その後友四郎は妻子を連れて東京へ戻り、6代目尾上菊五郎らからおやじと呼ばれて、劇界の生き字引として重宝がられた[3]。母は初め森川家に嫁いで2男1女を儲けたが夫と死別し、大谷と茶飲み友達として再婚した[3]。岡島の異父兄である森川貞造も歌舞伎役者となって市川新寿を名乗り、阪東妻三郎とは親友でもあったが、後に吉原花魁と心中した[3]

幼い頃から舞踊、琴、三味線などを仕込まれ、6歳の時の1915年(大正4年)に新派伊井蓉峰河合武雄一派に子役として出るようになり、明治座で初舞台を踏む[3]。8歳の時には井上正夫一座に入り、浅草みくに座、赤坂演技座、本郷座連鎖劇に出演する一方、歌舞伎の小芝居にも子役で出演する[3]。この間に泰明小学校に入学している[3]
映画女優へ

1921年(大正10年)9月、満12歳で松竹蒲田撮影所に入社[1]6代目嵐吉三郎から屋号の岡島屋を贈られて岡島艶子を名乗り、牛原虚彦監督の『狂へる剣技』の曲馬団の少女役で映画デビューする[3]。以来、小娘・舞妓・子守女などの役を演じ、大久保忠素監督の『帰らぬ人形』で初めて大きな役がつく[3]1923年(大正12年)9月1日関東大震災により蒲田の大部分が下加茂撮影所に移り、岡島もこれに同行。翌1924年(大正13年)1月に蒲田へ戻り[3]2月8日に東栄子、押本映治らとともに準幹部に昇格する[4]。娘役として重用され始め、池田義臣監督の『スヰートホーム』で栗島すみ子と共演、清水宏監督の『峠の彼方』では押本の相手役をつとめ、牛原監督の『小唄集 鈴蘭』では初主演する[3]

1924年(大正13年)、牧野省三に呼ばれて東亜キネマの女優強化のために入社を説得され、牧野の巧みな話術と人柄に惹かれて即座に入社を承諾。松竹に退社を申し出ると会社側は両親を責めて引き留めにかかり、「そのうちお返ししますから」という両親の頼みで許され、11月に東亜キネマ等持院撮影所に入社する[3]1925年(大正14年)、賀古残夢監督の『武士道』が入社第1作となり[3]二川文太郎監督の『墓石が鼾をする頃』では風変わりな少女の難しい役どころを演じて、10代のうちに、泉春子森静子マキノ輝子につぐ地位を確立していく[1]。その後はマキノ・プロダクション御室撮影所で『切られの与三郎』『黒髪夜叉』『快傑夜叉王』などに出演し、牧野監督の『闇乃森』では仇討ちに出た夫の留守に夫の友人と密通する妻という大胆な役を、体当たりで演じた[5]
マキノ時代『三朝小唄』(1929年)のスチル写真。右は秋田伸一

1926年(大正15年)4月1日、マキノを退社して東亜キネマに入社[6]。同年10月2日には松竹下加茂撮影所に加入し、松竹と提携して請負製作をしていた衣笠映画聯盟の作品に出演する。聯盟の第1作『照る日くもる日』ではヒロインを演じ、『稚児の剣法』では林長二郎の相手役に起用される。続いて『お嬢吉三』『乱軍』でも林と共演するが、1927年(昭和2年)4月16日千早晶子が林の相手役として入社したことに不服を懐き脱退[7]勝見庸太郎が牧野の使いでマキノ復帰をすすめに来たこともあり、即座にマキノへ戻る[5]井上金太郎監督の『いろは仮名四谷怪談』、牧野監督の『忠魂義烈 実録忠臣蔵』、マキノ正博監督の『浪人街 第一話 美しき獲物』などの時代劇出演し、吉野二郎監督の『夏の夜の唄』以降は現代劇が中心となる。1929年(昭和4年)、マキノの映画監督の仁科熊彦と、小笹正人の媒酌で結婚[1][8]


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