岡山県南政令指定都市構想
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岡山県南政令指定都市構想(おかやまけんなんせいれいしていとしこうそう)は、岡山県南の岡山市を中心とした大規模な市町村合併により、中四国の中枢としての広域都市建設と政令指定都市の指定を目指す行政の政策のこと。現在は将来の道州制導入の際、岡山県が提唱している「中四国州」の州都誘致のためという名目も付加されている。
概要

昭和30年代に岡山県知事の三木行治が提唱した「岡山県南百万都市建設計画」は、当時の全国六大都市東京横浜名古屋京都大阪神戸)に次ぐ大都市形成のための岡山市倉敷市を含む県南の大同合併である。しかし結果的には頓挫し、岡山市周辺、倉敷市周辺それぞれにおいて合併が進められることとなった。

その後、平成の大合併促進のために政令指定都市の人口要件が暫定的に条件付きで70万人に緩和されたことで、倉敷市を含まない岡山市周辺の市町のみで政令指定都市を目指す「岡山県南政令市構想」が提唱され、平成21年(2009年)4月1日に中国・四国地方では広島市に次ぐ2番目となる政令指定都市が誕生した。
岡山県南百万都市建設計画

昭和の大合併」の時期よりも前に提唱された当時の全国6大都市に次ぐ大都市形成と国による新産業都市の指定を念頭に置いた合併構想。1巡目の岡山国体開催前年の1961年に当時の岡山県知事・三木行治が提唱、岡山市倉敷市児島市の3市が中心となって33市町村の合併を目指したものである(県よりも先に地元山陽新聞社が昭和32年(1960年)に大岡山市の設計図という提唱記事を連載しはじめた)。合併が実現していれば人口は約90万人(計画では100万人超、実際は約130万人規模に達した)となり、岡山県民の約半分を占める大規模な市の誕生となっていた。もしそのまま、政府(自治省)との事務折衝が順調に進んだ場合、北九州市が政令市となった昭和38年(1963年)と同時期に全国で6番目もしくは7番目の政令市誕生となり、中国・四国地方では昭和55年(1980年)に移行した広島市より先に初の政令市となっていた可能性もあった。

昭和37年(1962年)4月、県南の33市町村で構成される「県南広域都市建設協議会」が発足し、各地で推進大会が開催され、国会でも報告されるなどして推進体制が整っていった。合併協議は順調に進み、合併協議会で合併期日は昭和38年(1963年)1月1日と定められ、その期日に向け全ての関係市町村議会で合併賛成の議決が行われた(岡山市においては昭和37年(1962年)12月17日、22対16の賛成多数で議決)。しかし社会党の革新市長だった岡山市長の寺田熊雄は、当初賛成だったが、倉敷市長の高橋勇雄とともに途中から合併反対に回った。さらに合併調印式当日にほとんどの首長らの署名が行われた段階で、倉敷市長が署名を行わないまま公印を持ち出し、東京へ一時失踪する事件が発生した[1]。三木知事など岡山県側は犯罪行為に当たると県側の都合の良い判断で、警察への捜索依頼と告発も検討するなどしたが、高橋倉敷市長が東京に失踪したことで期日での合併が事実上できなくなった。これにより合併の中心的存在だった岡山市、倉敷市、児島市(現:倉敷市児島地域)が合併協議から脱退するに至り、これら3市の市長が合併を知事に申請しなかったことにより構想は時間切れで頓挫した。

その後、頓挫したこの計画に救済を買って出た旧自治省(現総務省)の事務次官小林与三次により昭和38年1月10日から翌11日にかけて岡山市周辺と倉敷市周辺でそれぞれ合併を進めるという仲裁案を関係各市長を招き提示した。また、推進の中心であった三木知事が翌年の昭和39年に急死し、計画の発起人が不在になり大同合併の早期実現が更に困難となった。時を同じくして倉敷市では合併反対を唱える市民グループによる署名により市議会のリコールが成立、その後の選挙により合併賛成の議員の多くが落選するなどしたが、一方の岡山市では同じ年に「大岡山市建設」とあくまで政令指定都市実現を目指す岡崎平夫市政が誕生した。皮肉にも結果的には岡山市の政令指定都市へ向けた歩みは、三木知事が提唱した県南100万都市構想頓挫がきっかけとなって始まるに至った。また旧自治省(現総務省)仲裁案のとおり岡山市とその周辺(備前ブロック)、倉敷市とその周辺(備中ブロック)では昭和40年代から平成に至るまで各ブロック毎に順次合併が進み、岡山市においては政令指定都市に移行した。
岡山県南百万都市建設計画に参加していた自治体

7市20町6村が協議会に参加していた。後の市町村合併による枠組みごとに記載。なお、太字で示した各見出しは平成の大合併で消滅した概要を記している。1.真備町 2.玉島市 3.船穂町 4.倉敷市 5.庄村 6.早島町 7.茶屋町 8.児島市 9.山陽町 10.総社市 11.清音村 12.山手村 13.玉野市 14.東児町 15.鴨方町 16.金光町 17.津高町 18.高松町 19.一宮町 20.吉備町 21.足守町 22.御津町 23.灘崎町 24.岡山市 25.西大寺市 26.瀬戸町 27.上道町 28.邑久町 29.牛窓町 30.福田村 31.妹尾町 32.興除村 33.藤田村(黄:岡山市 薄青:倉敷市 水色:瀬戸内市 桃:赤磐市 緑:玉野市 橙:総社市 黄緑:浅口市 濃青:都窪郡早島町)

現在、岡山市の一部となっている自治体

岡山市

西大寺市1969年2月18日消滅)

赤磐郡瀬戸町2007年1月22日消滅)

吉備郡足守町1971年5月1日消滅)

吉備郡高松町(1971年1月8日消滅)

児島郡興除村(1971年5月1日消滅)

児島郡灘崎町2005年3月22日消滅)

児島郡藤田村1975年5月1日消滅)

上道郡上道町(1971年5月1日消滅)

都窪郡吉備町(1971年3月8日消滅)

都窪郡妹尾町(1971年3月8日消滅)

都窪郡福田村(1971年3月8日消滅)

御津郡一宮町(1971年1月8日消滅)

御津郡津高町(1971年1月8日消滅)

御津郡御津町(2005年3月22日消滅)

現在、倉敷市の一部となっている自治体

倉敷市1967年2月1日消滅)

児島市1967年2月1日消滅)

玉島市(1967年2月1日消滅)

浅口郡船穂町(2005年8月1日消滅)

吉備郡真備町(2005年8月1日消滅)

都窪郡庄村(1971年3月8日消滅)

都窪郡茶屋町1972年5月1日消滅)

現在、総社市の一部となっている自治体

旧総社市(2005年3月22日消滅)

都窪郡清音村(2005年3月22日消滅)

都窪郡山手村(2005年3月22日消滅)

現在、玉野市の一部となっている自治体

玉野市

児島郡東児町1974年3月20日消滅)

現在、浅口市の一部となっている自治体

浅口郡鴨方町2006年3月21日消滅)

浅口郡金光町(2006年3月21日消滅)

現在、瀬戸内市の一部となっている自治体

邑久郡牛窓町2004年11月1日消滅)

邑久郡邑久町(2004年11月1日消滅)

現在、赤磐市の一部となっている自治体

赤磐郡山陽町(2005年3月7日消滅)

合併しなかった自治体

都窪郡早島町

岡山県南政令市構想 (平成の大合併)

県南百万都市建設計画が頓挫した後、岡山市は市長・岡崎平夫のもと、高度成長で急速な市街化が進んだ隣接市町村との合併を積極的に進め、1969年(昭和44年)西大寺市を皮切りに1975年(昭和50年)の藤田村まで11市町村と合併し50万都市となり、平成4年には60万人を突破、全国初の中核市に移行した。2001年(平成13年)8月、国は市町村の合併を促進するため、政令指定都市の人口要件を暫定的に条件付きで70万人に緩和する市町村合併支援プランを発表した。


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