岡山城
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この項目では、岡山県岡山市にあった岡山城について説明しています。その他の岡山城については「岡山城 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

「石山城」はこの項目へ転送されています。大坂城の前身である、石山本願寺を守っていた城郭(石山本願寺城)については「石山本願寺」をご覧ください。

logo岡山城
岡山県
岡山城天守(外観復元)
別名烏城、金烏城
城郭構造梯郭式平山城
天守構造複合式望楼型4重6階(1597年築)
鉄筋コンクリート造外観復元・1966年
築城主上神高直
築城年1346年 - 1369年正平年間)
主な改修者宇喜多秀家、小早川秀秋、池田忠雄
主な城主宇喜多氏、小早川氏、池田氏
廃城年1873年(明治6年)
遺構櫓、石垣、堀
指定文化財国の重要文化財(月見櫓、西の丸西手櫓)
国の史跡
再建造物外観復元天守・外観復元門・外観土塀
位置

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1974年度・国土航空写真より

岡山城(おかやまじょう)は、備前国御野郡岡山[1](現・岡山県岡山市北区)にあった日本の城。国指定の史跡。別名は烏城(うじょう)、金烏城(きんうじょう)[注釈 1]
概要

戦国時代に、備前東部から興って、美作備中東部まで勢力を伸ばした宇喜多氏が本拠としたことで近世城郭の基礎が生まれ、その後小早川氏池田氏により整備、拡張が行われた。

岡山城は標高が十数メートルの丘が連なる小高い土地に建設された。

当時、旭川河口部は複数の派川に分岐しており、その中の大洲原と呼ばれる広大なデルタ地帯中央に「岡山」(柴岡山とも)、その西隣に「石山」、さらにその北西には「天神山」(天満山とも)の3つの丘が連なり、各時代ごとに要害として使用されたとされる。その中の石山にあった石山城(いしやまじょう)に宇喜多直家が入城・改築し、後に子の宇喜多秀家が隣接する岡山に新たに本丸を設け、石山城を取り込む形で城郭が建造された。これが岡山城である。[2][3]

城の縄張は基本的には梯郭式となっており、三段の城郭配置が西側の一方だけに広がる平山城となっている。言いかえると本丸の北から東には郭の無い、非常に防備が薄い縄張である。そのため旭川の流路を変更し、天然の堀として東側の備えに利用したとされる。さらには郭の代りとして、「後園(後楽園)」が築かれたともされる。 天守は4重6階の複合式望楼型で、出入り口は付属している塩蔵に設けられている。特に初重平面形状が歪んだ多角形をしているため、同じく歪んだ多角形平面の天守台を持つ安土城天主を模したものではないかと言われているが、羽柴秀吉による大坂城天守を模しているという説もある。その外観は黒漆塗の下見板が特徴的で、この印象から「烏城(うじょう)」とも呼ばれ、同じ山陽道の隣県の「白鷺城(はくろじょう)」とも呼ばれる姫路城と対比されることもある。元禄時代の古地図からは、五重の濠に囲まれた城郭と、南北3.5km、東西1.3kmにおよぶ城下町の姿がうかがえる。

明治時代に御殿・櫓・門の大半が取り壊された。堀は内堀の一部を除いてほとんど埋められて現存する廓は本丸と後楽園だけになっているが、街路は江戸時代の位置を踏襲している。さらに第二次大戦中、空襲のため天守を焼失した。現在までに2つの櫓、本丸付近の石垣、内堀が残り、戦後に天守・不明門・廊下門・六十一雁木上門・塀の一部がコンクリート造で再建された。現存する月見櫓・西之丸西手櫓は国の重要文化財に指定され、「岡山城跡」として史跡にも指定されている。その他、京橋御門が岡山市南区小串に移築され現存している。城跡は「烏城公園」として整備される一方、二之丸跡にRSK山陽放送林原美術館岡山市民会館が、三之丸跡に岡山県庁岡山県立図書館などの公共機関がある。内下馬門、内下馬門橋、太鼓櫓の木造復元計画があるが、予算の関係で天守、不明門、廊下門、六十一雁木上門、土塀の木造復元計画はない。

2020年東京オリンピックの聖火リレーでセレブレーション会場となった、聖火ランナーは公募により1万人程度が選ばれた、聖火リレーについて、組織委員会はスポンサー企業4社と各都道府県実行委員会が行ったランナー公募に延べ53万5717件の応募があったと発表した[4]

隣接する大名庭園後楽園は、水戸偕楽園金沢兼六園とともに、日本三名園として並び称される。
歴史
南北朝時代 - 安土桃山時代平成5年の発掘調査で発見された宇喜多氏築城時の石垣

南北朝時代正平年間(1346年 - 1369年)に、名和氏の一族上神高直が石山台(岡山)に城を築いたと、「備前軍記」に書かれているのが最初と伝えられている。その後およそ 150年間の城主は明らかではない。なおこの付近には摂関家領・鹿田荘の中心部があったとされ、旭川(鹿田川)河口の港町としても栄えていたとされる[注釈 2]。戦国時代の大永年間(1521年 - 1528年)には、金光氏が居城とし金川城主の松田氏に仕えていた。

元亀元年(1570年)、宇喜多直家が金光宗高を謀殺しこの地を支配した。直家は備前守護代浦上氏の一族浦上宗景の被官であったが、備前西部を中心に勢力を急速に伸張していた。天正元年(1573年)、直家はそれまでの居城である亀山城(沼城)から石山城に入城し、城の改築と城下町の形成を行った。この頃の石山城(岡山城)は、縄張が東西に走る連郭式であったと推定されている。直家は北方の山裾にあった西国街道を、城の南に沿うように付け替えて城下に導いた。そして備前福岡備前西大寺などから商人を呼び寄せ、いわゆる城下町の整備を行うなど積極的に流通主導による経済振興とも言うべき政策をとった。信長が安土城を築城する3年前のことである。これは直家が幼少の頃に、備前福岡の商人に庇護を受けたと言われていることも無縁ではないとみられている。

なお主家である宗景の居城である天神山[注釈 3]は巨大なものではあるが天神山にある山城で、直家の水辺に近い小高い丘の石山城とは対照的である。天正3年(1575年)には、浦上宗景の兄・政宗の孫をおしたてて宗景を播磨へ放逐し、事実上の下克上を行いやがて備前、美作、さらに播磨、備中の一部を支配下に置いた[注釈 4]


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