岡城_(豊後国)
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logo岡城
大分県
三の丸 高石垣
別名臥牛城、豊後竹田城
城郭構造梯郭式山城
天守構造(1596年築・非現存)
複合連結型層塔式(1774年再・非現存)
築城主緒方惟栄
築城年文治元年(1185年
主な改修者志賀貞朝、中川秀成
主な城主志賀氏、中川氏
廃城年明治4年(1871年
遺構石垣
指定文化財国の史跡
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯32度58分9.18秒 東経131度24分29.05秒 / 北緯32.9692167度 東経131.4080694度 / 32.9692167; 131.4080694 (岡城)座標: 北緯32度58分9.18秒 東経131度24分29.05秒 / 北緯32.9692167度 東経131.4080694度 / 32.9692167; 131.4080694 (岡城)

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岡城(おかじょう)は、大分県竹田市大字竹田(豊後国直入郡竹田)にあった日本の城山城)。臥牛城(がぎゅうじょう)・豊後竹田城(ぶんごたけたじょう)とも呼ばれる。
歴史

岡城の築かれた天神山標高325メートル、比高95メートル、城域は、東西2500メートル、南北362メートル、総面積は23万4千平方メートルに及んだ。

伝承では、文治元年(1185年)に緒方惟義源頼朝に追われた源義経を迎えるために築城したことが始まりであるという。その山城は、南北朝時代建武元年(1334年)に後醍醐天皇の指示を受けた大友氏一族[注釈 1]の志賀貞朝によって拡張され、岡城と名付けられたとされている。一方、『豊後国志[1]によると、志賀氏が直入郡に入ったのは応安2年(1369年)以降のことで、同郡内でも岡城に入る前には木牟礼城(騎牟礼城)を居城としていたという[2]

天正14年(1586年)、先に耳川の戦いで敗れ衰退した大友氏を下すべく、薩摩島津氏が豊後府内に迫る快進撃を見せていた中、岡城のみは志賀親次の指揮のもと再三にわたり島津軍を撃退し(豊薩合戦)、親次はその功績から豊臣秀吉より天正15年正月3日付けの褒状を受けている[3]

豊臣秀吉の時代の文禄2年(1593年文禄の役大友吉統が秀吉から鳳山撤退を責められ所領を没収されると、大友氏重臣の親次も岡城を去ることとなった。翌、文禄3年(1594年播磨国三木から中川秀成[注釈 2]が移封され、入城後に3年がかりで大規模な修築を施した。

この修築では、縄張設計に石田鶴右衛門、三宅六郎兵衛、石垣普請に山岸金右衛門などが携わり、志賀氏時代の城域の西側天神山に本丸・二の丸・三の丸御殿・を造営し、城の西側を拡張、重臣屋敷群を設けた。本丸に御三階櫓を設け、城門は志賀氏時代の大手口であった下原門に加えて近戸門を開き大手門を東向きの下原門から現在見られる西向きの位置に改め[注釈 3]、3口とした。また、城下町は志賀氏時代の挟田に加えて西方に竹田町が整備された。

豊後竹田7万石の中川氏は、関ケ原で東軍に属したため所領を安堵。岡藩(竹田藩)2代久盛の代には清水門が整備され、3代久清の時に西側の重臣団屋敷を接収して西の丸を築き御殿を造営している。岩盤の台地の上に築かれたため、台風や地震、火事などの被害を多く受け、特に8代中川久貞明和8年(1771年)には本丸、西ノ丸、御廟など城の大半を焼く大火が起きている。

明治維新後、廃城令によって廃城とされ、明治4年(1871年)から翌年にかけて城内の建造物は全て破却され、現在残っているのは高く積み上げられた石垣のみである。なお、昭和62年(1987年)には築城800年祭の記念行事として20日間限定で模擬天守と大手門が復元された[注釈 4][5][6]

昭和11年(1936年12月16日、「岡城址」として国の史跡に指定され、平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(95番)に選定された。平成2年(1990年)には、「岡城公園」として日本さくら名所100選に選定された。

城下の殿町「殿町武家屋敷通り」が、平成元年度手づくり郷土賞(歴史をいかした街並み)受賞。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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