岡倉天心
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おかくら てんしん
岡倉 天心
1905年明治38年)の岡倉天心
生誕岡倉 角蔵(おかくら かくぞう)
(1863-02-14) 1863年2月14日
武蔵国横浜
死没 (1913-09-02) 1913年9月2日(50歳没)
新潟県妙高市
墓地染井墓地
国籍 日本
別名岡倉 覚三(本名)
出身校東京大学
影響を受けたものジェームス・ハミルトン・バラ
アーネスト・フェノロサ
影響を与えたもの浦敬一
配偶者基子
受賞従四位勲五等双光旭日章
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岡倉 天心(おかくら てんしん、文久2年12月26日1863年2月14日〉 - 大正2年〈1913年9月2日)は、日本思想家文人。本名は岡倉 覚三(おかくら かくぞう)。幼名は岡倉 角蔵(読み同じ)。
人物

横浜の本町5丁目(現在の同市中区本町1丁目、横浜開港記念会館付近)で生まれる。福井藩出身の武家で、1871年に家族で東京に移転[1]。東京美術学校(現在の東京藝術大学美術学部)の設立に大きく貢献し、後年に日本美術院を創設した。近代日本における美術史学研究の開拓者で、英文による著作での美術史家、美術評論家としての活動、美術家の養成、ボストン美術館中国・日本美術部長といった多岐に亘る啓発活動を行い、明治以降における日本美術概念の成立に寄与した。「天心」は岡倉が詩作などの際に用いた号であるが、生前には「岡倉天心」と呼ばれることはほとんどなく、本人はアメリカでも本名の岡倉 覚三(Okakura Kakuzo)で通していた[2]

福井藩の下級藩士・岡倉勘右衛門は、藩命で武士の身分を捨て、福井藩が横浜に開いた商館「石川屋」(現在の横浜市開港記念会館)の貿易となり、その商店の角倉で生まれたことから、覚三は当初「角蔵」と名付けられた。9歳の時、妹・てふを出産した母・このが産褥熱で死去する。その葬儀が行われた長延寺(後のオランダ領事館)に預けられ、そこで漢籍を学び、横浜居留地に宣教師ジェームス・バラが開いた英語塾で英語も学んだ。弟の岡倉由三郎英語学者。東京開成所(後の官立東京開成学校、現在の東京大学)に入所し、政治学理財学を学ぶ。英語が得意だったことから同校講師アーネスト・フェノロサ助手となり、フェノロサの美術品収集を手伝った。16歳のとき、大岡忠相の末裔でもある13歳の基子と結婚する。1882年明治15年)に専修学校(現在の専修大学)の教官となり、専修学校創立時の繁栄に貢献し学生達を鼓舞した。専修学校での活躍は、文部省専門学務局内記課に勤めていたころである。また専修学校の師弟関係で浦敬一も岡倉と出会い、その指導により生涯に決定的な影響を受けた。

1890年(明治23年)から3年間、東京美術学校でおこなった講義「日本美術史」は、叙述の嚆矢(初の日本人自らの通史での美術史)とされる。
顕彰・記念事業岡倉天心記念公園

1942年(昭和17年)、晩年を過ごした茨城県五浦に天心翁肖像碑(亜細亜ハ一な里石碑)が竣工。同年11月8日には横山大観斎藤隆三石井鶴三などが参列して除幕式が行われた[3]

1967年(昭和42年)には東京都台東区に岡倉天心記念公園(旧邸・日本美術院跡)が開園。1997年(平成9年)には北茨城市の五浦に日本美術院第一部を移転させて活動した岡倉天心らの業績を記念して、茨城県天心記念五浦美術館が設立された[4]

ニューヨークで自身の英語で「茶の本」を出版し100年にあたる2006年10月9日に、岡倉が心のふるさととしてこよなく愛した福井県の永平寺曹洞宗の大本山)で、関係者による“岡倉天心「茶の本」出版100周年記念座談会”が行われた。そして岡倉の生誕150年、没後100年を記念し2013年11月1日から12月1日まで、福井県立美術館で「空前絶後の岡倉天心展」を開催した。
来歴

1863年2月14日文久2年12月26日)、福井藩士・岡倉覚右衛門の次男として横浜(生誕の地は現在の横浜市開港記念会館)に生まれる。神奈川警備方を命じられた福井藩は横浜で海外貿易の盛隆を目の当たりにし、生糸を扱う貿易商店「石川屋」を1860年に横浜本町5丁目に開店し、覚右衛門を赴任させた。店を訪れる外国人客を通じて岡倉は幼少時より英語に慣れ親しんでいった[5]

1870年ジェームス・ハミルトン・バラの英語塾へ入る。母を亡くす[5]

1871年明治4年)、父親の再婚をきっかけに、大谷家に養子に出されるが、里親とそりが合わず、神奈川宿の長延寺に預けられる。寺の住職から漢籍を学ぶ一方、高島嘉右衛門が開いた洋学校「高島学校」へ入学[5]

1873年(明治6年)、廃藩置県による石川屋廃業に伴い、父親が蛎殻町で旅館を始めたため、一家で東京へ移転[5]。官立東京外国語学校(現在の東京外国語大学)に入学。

1875年(明治8年)、東京開成学校1877年〈明治10年〉に東京大学に改編)に入学。漢学の素養の深かった兄・港一郎が死亡[5]

1878年(明治11年)基子と結婚。

1880年(明治13年)7月、東京大学文学部卒業。11月より文部省に音楽取調掛として勤務。

1881年(明治14年)アーネスト・フェノロサ日本美術を調査。長男の一雄誕生[5]

1882年(明治15年)、専修学校(現在の専修大学)の教官となり、専修学校創立時の繁栄に貢献し、学生達に大きな影響を与えた。

1884年(明治17年)6月25日、フェノロサとともに京阪地方の古社寺歴訪を命じられ、出張中、法隆寺夢殿を開扉、救世観音菩薩像を調査。

1886年 - 1887年(明治19 - 20年)、東京美術学校(現在の東京藝術大学美術学部)設立のため、フェノロサと欧米視察旅行。当地にて、日本美術に触発されたアールヌーヴォー運動の高まりを見て、日本画推進の意をさらに強くする。

1887年(明治20年)、東京美術学校幹事。

1888年(明治21年)、明治を代表する文部官僚で男爵の九鬼隆一は岡倉のパトロンであったが、その妊娠中の妻・波津子と恋に落ちる。波津子は隆一と別居し、のち離縁する。離縁後、波津子は周蔵を生む。彼は、子供の頃訪ねてくる天心を父親と考えたこともあったと記している。10月、博物館学芸員に任命され、年間300円の手当を得る[6]

1889年(明治22年)、日本美術学校開校。美術雑誌『国華』創刊。5月、帝国博物館理事に任命[7]。12月、大博覧会美術部審査官となる[8]

1890年(明治23年)、10月7日東京美術学校初代校長に岡倉天心(浜尾新は校長事務取扱に留まり、事実上の初代校長は岡倉天心[9]、副校長はフェノロサ)。27歳のこの頃が最も活動がさかんであった。同校での美術教育が特に有名で、福田眉仙横山大観下村観山菱田春草西郷孤月らを育てたことで知られる。西黒門町から中根岸7番地に転居[10]

1891年(明治24年)12月、シカゴ万国博覧会の評議員に選ばれ、政府出品物の鳳凰殿の室内装飾と出品物制作を受託。鳳凰殿模型の建築を東京美術学校で請負い、その英文解説を執筆した。[11]

1893年(明治26年)7月11日、宮内省より清国出張を命じられ、竜門石仏を発見し、12月7日、帰国。

1897年(明治30年)、『日本帝国美術歴史』の編纂主任になる[12]

1898年(明治31年)、東京美術学校を排斥され辞職。同時に連帯辞職した大観らを連れ、日本美術院下谷区谷中に発足させる。

1901年 - 1902年(明治34 - 35年)、インド訪遊。タゴールヴィヴェーカーナンダ等と交流する。

1902年 - 来日したビゲローと交歓[13]

1903年(明治36年)、ロンドンのジョンマレー社より"The Ideals of the East with Especial Reference to the Art of Japan"刊行。そののち、1922年(大正11年)に日本美術院より刊行の『天心全集』で初めて訳出されたあと[14]、1942年の「東邦の理想[15]」(村岡博訳)をはじめ、逆輸入というかたちで続々と翻訳紹介が始まる。

1904年(明治37年)、ビゲローの紹介でボストン美術館中国・日本美術部に迎えられる[注釈 1]。この後は館の美術品を集めるため日本とボストン市を往復することが多くなり、それ以外の期間は茨城県五浦(いづら)のアトリエにいることが多くなり表立った活動は少なくなった[注釈 2]

1905年(明治38年)、9月渡米[16]

1906年(明治39年)、美術院の拠点を茨城県五浦に移す。この団体は岡倉の活動が鈍るにつれて活動も減少するが岡倉の没後、大観らによって再興された。

1907年(明治40年)、三回目のボストン美術館勤務のため渡米[5]正五位勲六等に叙され、8月に美術審査委員会委員に就任[17]。10月、文部省公設展覧会の出品締め切りに遅れた画家・高橋廣湖のために会場の一部を私費で借りて展覧会を開催[18]

1910年(明治43年)、ボストン美術館理事長のエドワード・ホームズ(Edward Jackson Ned Holmes[19]。日本美術愛好家で妻は日本人[5])の支援でボストン美術館に東洋部を設けることになり、ヨーロッパの美術館東洋部の視察ののち[5]、ボストン美術館中国・日本美術部長に就任。

1911年(明治44年)、9月帰国[20]

1912年(明治45年)、文展審査委員就任[21]

1913年大正2年)、ボストンに歌劇場ができることを聞き、葛の葉を題材としたオペラ「白狐」を書き、アメリカでの支援者のひとりであるイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館ガードナー夫人に贈る。その作曲は親交のあったチャールズ・マーティン・レフラーに委ねられたが、作曲の筆が遅く、結局完成されなかったため、岡倉とレフラーの関係は気まずい状態となった。その後、自らの死が近いことを感じ、妻・基子の隠居所を東京・田端に建設、妻の反対で延びていた長男・一雄の結婚披露宴を開く。若い画家たちの支援のために原富太郎(三溪)とともに「観山会」を組織[5]


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