「岐」の語義については、ウィクショナリーの「岐
」の項目をご覧ください。公用語漢語(中国語)
首都鳳翔
王
907年 - 924年李茂貞
変遷
唐より禅譲した後梁に従わず自立907年
後唐によって滅亡924年
岐(き、901年 - 924年または946年)は、中国五代十国時代に鳳翔を中心に現在の陝西・甘粛・四川の一部地域を支配した国。建国者は李茂貞(856年 - 924年、初名は宋文通)。ただし、いわゆる「十国」からは除外されている。 五代十国時代の901年に鳳翔節度使であった李茂貞が建国した地方政権。五代十国には数えられていない。 黄巣の乱にて軍功を上げた李茂貞は、やがて節度使に任じられるようになり急速に勢力を拡大した。891年に興元節度使の反乱を鎮め、その本拠であった漢中を支配すると、朝廷が派遣する後任節度使を妨害し、腹心を留後(代官)として派遣したため、実質的に2つの節度使を兼任することとなる。これに激怒した唐の昭宗は894年に李茂貞討伐軍を起こすが、他の節度使の協力が得られず計画は失敗する。 その結果、李茂貞が関中全域を平定しさらに勢力を拡大、901年には昭宗に迫り、岐王の称号を与えられた上に、皇帝を自分の根拠である鳳翔に遷して遷都を宣言する。これにより10道20州を岐の国号で統治した李茂貞は、次期皇帝すら窺える地位を得た。 しかし他の節度使はこの動きに対して激しく反発、朱全忠・李克用ら有力藩鎮が李茂貞討伐に動き出す。903年、鳳翔を包囲した朱全忠は成都の王建と結んでこれを挟撃、やむなく李茂貞は昭宗を朱全忠に引き渡して降伏した。岐は2道7州にまで削減され、没収された領土は朱全忠と王建によって分割された。 907年、朱全忠は唐朝滅亡を実現させて後梁を建て、地方の藩鎮もこれに対抗して次々に新国家を打ち立てて「王」「皇帝」を名乗り、いわゆる五代十国時代が始まった。李茂貞も岐の国号で自立したが、昔日の勢力はなく、後梁と前蜀の間で細々と命脈を保った。 後唐の李存勗が後梁を滅ぼすと、李茂貞はその圧力に屈してその領土を924年に李存勗に献上した。
概要