岐阜県立斐太高等学校
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯36度9分25.9秒 東経137度15分29.2秒 / 北緯36.157194度 東経137.258111度 / 36.157194; 137.258111
岐阜県立斐太高等学校(ぎふけんりつ ひだこうとうがっこう)は、岐阜県高山市に所在する県立高等学校である。 1886年(明治19年)5月17日開校。岐阜県内で2番目に歴史のある公立高校である。通称は斐高(ひこう)。「斐太」は万葉集で飛騨国を意味する。 校章である蜻蛉章(せいれいしょう)は当時図画科の担当であった田島稲三によって考案された。大町桂月・幸田露伴に高く評価されたと伝えられている。 伝統的な詰襟の学生服、セーラー服が指定されている。なお、性別による指定はないため、男子がセーラー服、女子が学生服の着用をしても良い。 制定は1908年(明治41年)で、岐阜県下でも古くから残っている校歌である。生徒が流行歌を歌わないように、というのが校歌の誕生したきっかけである。作詞は当時の国語教師、今村勝一。作曲は楠美恩三郎。歌詞は乗鞍岳や宮川などの風景を織り込みながら学校の校訓などを歌っており、学校名が全く入っていない。そのため、旧制中学から新制高校に変わってからも、変わらずに歌い継がれている。
概要
校訓
切磋琢磨
詩経の国風・衛風に収められる詩「淇奧」の一節「有斐君子 如切如磋 如琢如磨」より。「斐」の字からの連想であるとされる。当校の同窓会組織である「有斐会」の名称も、当時漢文の担当であった山本秀雄がここから引用して命名した。
確乎不抜
易経・乾・文言 第二節より。
校章
制服
校歌
沿革
1886年(明治19年) 飛騨三郡により高山中学校創立、斐太学校と改称。
1888年(明治21年) 岐阜県斐太尋常中学と改称。
1899年(明治32年) 岐阜県斐太中学校と改称、校章制定。
1908年(明治41年) 校歌制定。
1948年(昭和23年) 通信教育部が併設される。新制高校に昇格し岐阜県立斐太高等学校と改称。岐阜県立高山工業高等学校を統合する。高山工業高校の木材工芸科、建築科は斐太高校の校地に移転し、校舎は高山市立第三中学校となる。
1956年(昭和31年)7月29日 斐太高等学校と岐阜県立高山高等学校が同時に放火の被害に遭う[1]。
1957年(昭和32年) 斐太高等学校の建築科、木材工芸科と高山高等学校の農業科、林業科、畜産科を統合し、岐阜県立斐太実業高等学校が新設される。
1986年(昭和61年) 創立100周年。
2003年(平成15年) 飛騨地区初の大学入試センター試験会場に指定される。
2005年(平成17年) 通信制課程を岐阜県立飛騨高山高等学校へ移管。
学校行事
遠足・修学旅行 - 1年生と3年生は遠足が、2年生時には修学旅行が行われる。修学旅行は九州や沖縄へ行くことが多かったが、1学年の人数が多いため航空機の手配が難しく、最近では沖縄へ行くことは無くなった。中国を計画されていたこともあったが、2002年から2003年のSARSの流行により、新幹線とバスを乗り継ぎ、長崎及び福岡へ行くようになった。2023年は再び沖縄への修学旅行が行われた。
蜻蛉祭(あきつさい)- 斐太高校の文化祭は1992年度から「蜻蛉祭」と呼ばれており、6月に行われる。各クラスによるステージ・展示発表のほか、文化系部活動による発表も行われる。一般公開有り。
体育祭 - 9月に行われる。赤団・青団・黄団に分かれて競技が行われる。
蜻蛉の森(あきつのもり) - 文化系部活動による発表会・展示会で3月下旬に行われる。高山市民文化会館にて一般公開される。2000年以降に行事化されたものであり歴史は浅く、それまでは吹奏楽部や演劇部など一部の文化系部活動による定期的な公演がそれぞれ個別に行われていた。
白線流し - 卒業式と同時に行われる別離の行事。卒業生が旅立つ前に友情を誓うという意味合いも持つ。川を挟んで校舎側に在校生が、対岸に卒業生が校舎に向かって立ち行事が行われる。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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