岐阜城
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logo岐阜城
岐阜県
金華山の山上にある模擬天守と岐阜城資料館
別名美濃國井之口の山館、稲葉山城、金華山城、井口城、岐阜城
城郭構造山城
天守構造望楼型4重5階(1567年築・非現存)
独立式望楼型3重4階(RC造復興・1956年再建)
築城主二階堂行政
築城年1201年(建仁元年)
主な改修者織田信長
主な城主斎藤氏織田氏
廃城年1600年(慶長5年)
遺構曲輪石垣土塁堀切
指定文化財国指定の史跡
再建造物天守、門
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度26分2.66秒 東経136度46分55.97秒 / 北緯35.4340722度 東経136.7822139度 / 35.4340722; 136.7822139座標: 北緯35度26分2.66秒 東経136度46分55.97秒 / 北緯35.4340722度 東経136.7822139度 / 35.4340722; 136.7822139
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岐阜城(ぎふじょう)は、美濃国井之口の稲葉山岐阜県岐阜市金華山)にあった日本の城山城)。もとは稲葉山城と言い、鎌倉時代以来の歴史があり[1]、本格的に整備されたのは戦国時代斎藤道三の時期だと考えられ、織田信長が1567年の稲葉山城の戦いにより斎藤龍興から奪取し、本拠地を小牧山から当城へと移し、その縄張りを破却して新たに造営したものが岐阜城である。『信長公記』に「尾張国小真木山より濃州稲葉山へ御越しなり。井口と申すを今度改めて、岐阜と名付けさせられ」と記載されており、ここから天下布武、天下統一をおこなうという意味をこめて、信長が山頂にある城や麓にある町などを「井口」から「岐阜」へと改名したことにより「岐阜城」と呼ばれることになった。[2] 城の北側を流れる長良川対岸から見た現在の岐阜城跡の姿。山全体が岐阜城だったのであり、山中にも砦があり山全体が要害として機能し、麓には城主の館があった。岐阜市北一色から望む金華山連峰(南側山体)。各峰々に櫓が築かれ、山全体が要塞化されていたとされる。

(大きな複合的な城であり)山上の城郭部分と山麓の居館部分を中心としつつも、それらの間を結ぶ登城路、さらに山中の要所に配されたもあり、なにより山そのものが天然の要害として機能していた[3]。麓に置かれた城主の館は、山の西麓にある槻谷(けやきだに)にあり、地形は斎藤氏 三代の頃に造られ、信長が大規模に改修をし、大きな池の南北に建物が2つあり大きな庭園があったことが発掘調査で分かっており、有力者なども招かれたらしく、ルイス・フロイスが訪れた記録もあり、関ヶ原の合戦の前哨戦のころまで使われていたという。

当城の城主は、織田信長の後は、織田信忠、(信長亡き後に)織田信孝池田元助池田輝政豊臣秀勝織田秀信らであるが、秀信は石田三成の挙兵に呼応し西軍につき、関ヶ原の戦いの前哨戦の岐阜城の戦い(1600年)で東軍側の池田輝政福島正則らに攻められ落城、翌1601年(慶長6年)徳川家康によってに当城は廃城とされた。

近年の調査によりこの城の価値が見直されるようになり、2011年(平成23年)に岐阜城跡(ぎふじょうあと)つまり山頂の城の城跡および山麓の織田信長公居館跡を含めた金華山一帯の約209ヘクタール(2,091,602.74平方メートル)が史跡に指定された[3]。その範囲は、現在の国有林の範囲に符合する[3]

なお現在山頂にある建造物は、1956年(昭和31年)に(当時なりに想像し往年の天守を模したつもりで)鉄筋コンクリートで建てた模擬天守である。山麓付近では1984年ころから発掘調査が行われるようになり、現在も発掘が進行中である。山麓の岐阜公園内にある信長公居館跡は、槻谷(けやきだに)を流れる谷川の両側に段々地形が造られ、建物や庭園を配したものとなっている。又、岐阜市によれば山麓にあった庭園を復元する計画がある。
歴史・沿革
鎌倉・室町時代

1201年建仁元年) - 二階堂行政が井口の山(金華山・稲葉山)にを築いたのが始まりとされる。続いて行政の娘婿・佐藤朝光、その子伊賀光宗、光宗の弟・稲葉光資(稲葉氏・美濃安藤氏)が砦主となり支配した為、金華山は稲葉山と呼ばれるようになるが、二階堂行藤の死後、廃城となる。

15世紀中頃 - 美濃守護代斎藤利永が、この城を修復して居城とする。

戦国時代

1525年大永5年) - 斎藤氏家臣の長井長弘長井新左衛門尉謀反を起こして稲葉山城を攻撃。長井氏の支配下となる。

1533年天文2年) - 新左衛門尉が没すると、その子、長井新九郎規秀(斎藤利政、後の斎藤道三)が後を継ぎ、城主となる。

1539年(天文8年) - 守護代になっていた斎藤利政が、稲葉山山頂に城作りを始める。

1541年(天文10年) - 利政が守護土岐頼芸を追放。

1547年(天文16年) - 織田信秀、頼芸派の家臣と稲葉山城下まで攻め入るも大敗(加納口の戦い)。

1554年(天文23年) - 利政、城と家督を嫡子斎藤義龍に譲り剃髪、道三と号する。

1556年弘治2年)5月 - 義龍、長良川の戦いにより道三を討ち取る。

1561年永禄4年)6月 - 義龍の急死により、斎藤龍興が13歳で家督を継ぎ、城主となる。

同年6月 - 十四条の戦いに勝利した織田信長が稲葉山城を攻めるも敗退。


1564年(永禄7年)3月 - 斎藤氏の家臣であった竹中重治安藤守就が造反して挙兵。


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