山雲_(駆逐艦)
[Wikipedia|▼Menu]


艦歴
計画A計画
起工1936年11月4日
進水1937年7月24日
就役1938年1月15日
その後1944年10月25日戦没
除籍1945年1月10日
性能諸元
排水量基準:約2,000t、公試:2,400t
全長118.00m
全幅10.386m
吃水3.71m(平均)
機関艦本式オール・ギアードタービン2基2軸
ロ号艦本式重油専焼缶3基
50,000hp
最大速力34.85kt
航続距離18ktで5,190浬
燃料重油580t
乗員230名
武装(新造時)50口径12.7cm連装砲 3基6門
25mm機銃 II×2
(または13mm機銃 II×2)
61cm4連装魚雷発射管 2基8門
(九〇式魚雷16本)
九一式爆雷×36

山雲(やまぐも)は[1]大日本帝国海軍駆逐艦[2]一等駆逐艦朝潮型(満潮型)の6番艦である[3]。1944年(昭和19年)10月下旬のレイテ沖海戦で西村艦隊に所属しスリガオ海峡へ突入、米艦隊の砲雷撃を受けて沈没した。艦名は海上自衛隊やまぐも型護衛艦やまぐも」に継承された。
艦歴山雲の進水式。1937年7月24日、藤永田造船所

駆逐艦「山雲」は藤永田造船所で建造開始。1936年(昭和11年)10月22日、「山雲(ヤマグモ)」と命名[1]。姉妹艦「朝雲」、工作艦「明石」も同日附で命名されている[1]。同年11月4日に起工、1937年(昭和12年)7月24日に進水、1938年(昭和13年)1月15日に竣工[4]。同時に第41駆逐隊に編入された。

同年9月15日、第三予備艦となり横須賀海軍工廠蒸気タービン機関の改造工事を実施した(臨機調事件)。1939年(昭和14年)11月15日、所属の第41駆逐隊が第9駆逐隊となった。1940年(昭和15年)11月15日、第9駆逐隊は第二艦隊・第四水雷戦隊に編入された。
太平洋戦争

太平洋戦争開戦時には、朝潮型の姉妹艦3隻(朝雲夏雲峯雲)と共に第四水雷戦隊(司令官西村祥治少将・旗艦「那珂」)・第9駆逐隊(駆逐隊司令佐藤康夫大佐)に所属していた。1941年(昭和16年)12月8日、「山雲」は第21水雷隊、第11掃海隊などとともにバタン島攻略に参加した[5]。同島のバスコ飛行場確保が目的であり、上陸した陸戦隊は抵抗を受けることなく飛行場を占領した[6]。次いでリンガエン湾上陸作戦に参加。12月31日、サンフェルナンド灯台沖で誤って味方の機雷に触れ損傷した[7]1942年(昭和17年)2月5日、リンガエン発[8]。9日香港に到着[9]。入渠して応急修理を行った[10]。4月1日に出港し、6日横須賀着[11]。以後9月末まで同地にとどまり修理を実施した。なお5月15日附で「山雲」は第9駆逐隊より除籍された[12]。同日附で損傷修理中の朝潮型3隻(山雲、満潮大潮)は予備艦となる[13]。約五ヶ月が経過した10月1日附で、「山雲」は警備駆逐艦に指定される[14]横須賀鎮守府海面防備部隊に編入され、船団護衛任務に従事する。同日(10月1日)、「山雲」は駆逐艦「萩風」(第4駆逐隊)のトラック泊地?日本本土回航を護衛する[15]。航海中、スクリューの脱落で航行不能となった「萩風」を曳航し、8日に横須賀港へ戻った[15]。12月8日、乙一号輸送作戦第2部隊として輸送船2隻(朝風丸、相良丸)を護衛し横須賀を出発、途中で駆逐艦「追風」(第二海上護衛隊)と護衛任務を交代した[16]

1943年(昭和18年)2月8日午後4時、「山雲」は兵員輸送船「龍田丸」を護衛して横須賀を出発、トラック泊地へ向かっていた[17]。午後10時15分頃、御蔵島東方40マイル地点で「龍田丸」は米潜水艦「ターポン」に雷撃され、約20分後に沈没[17][18]。龍田丸の前方1000?1500mを航行していた「山雲」は爆発音を聞いて反転、「イカニセルヤ」と信号で問い合わせるが応答はなかった[17][18]。風速20mの時化により捜索は難航[18]。小野艦長は「龍田丸の痕跡を発見した者には賞金を出す」とまで通達したが、燃料切れになるまで捜索しても破片すら発見できなかったという(2月20日、白鳥丸が軍属1名の遺体を収容)[19]。その後も山雲は護衛任務に従事し、各地を転々とする。9月20日から10月6日まで、輸送船3隻(平安丸、護国丸、清澄丸)、水上機母艦「秋津洲」、駆逐艦3隻(山雲、巻波)は丁二号輸送部隊として第17師団の上海?呉?トラック?ラバウル移動(南東方面派遣)を実施する[20]
第四駆逐隊

この輸送作戦を準備中の同年9月15日、「山雲」は第4駆逐隊に編入された[21]。開戦時の第4駆逐隊は陽炎型駆逐艦4隻(萩風野分舞風)で編制され第四水雷戦隊に所属していたが、ミッドウェー海戦を経て1942年(昭和17年)7月に第十戦隊へ移籍していた。その後、1943年(昭和18年)8月6日のベラ湾夜戦で所属艦2隻(萩風、嵐)を撃沈された第4駆逐隊は2隻編制(野分、舞風)となっており、「山雲」の編入で陽炎型(不知火型)と朝潮型(満潮型)の混成部隊となった。第4駆逐隊は丁四号輸送部隊第三輸送隊として輸送船2隻(日枝丸、粟田丸)を護衛、11月12日にラバウルへ到着した[22]

11月中旬、「山雲」はトラック泊地から日本本土へ向かう4隻(潜水母艦長鯨、練習巡洋艦鹿島、特設運送船護国丸、秋月型駆逐艦若月)を護衛する[23]11月19日、「山雲」は船団を追跡していた米潜水艦「スカルピン」を発見する[24]。「山雲」は爆雷攻撃を加えて「スカルピン」に損傷を与え、浮上した同艦を砲撃により撃沈した[24][25]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:56 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef