山階寺
[Wikipedia|▼Menu]

この項目では、奈良市の興福寺について説明しています。その他の興福寺については「興福寺 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

 興福寺

五重塔と東金堂(共に国宝)
所在地奈良県奈良市登大路町48番地
位置北緯34度40分59.7秒
東経135度49分52.2秒座標: 北緯34度40分59.7秒 東経135度49分52.2秒
山号無し
宗派法相宗
寺格大本山
本尊釈迦如来
創建年天智天皇8年(669年
開基藤原不比等
札所等西国三十三所第9番(南円堂)
南都七大寺第2番
西国薬師四十九霊場第4番(東金堂)
神仏霊場巡拝の道第16番
大和北部八十八ヶ所霊場 第62番(菩提院)
文化財五重塔、木造弥勒仏坐像、乾漆八部衆像ほか(国宝
南円堂、木造薬王菩薩、薬上菩薩立像ほか(重要文化財
世界遺産
地図
法人番号7150005000123
テンプレートを表示

地理院地図Googleマップ 興福寺

興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の仏教寺院である。南都七大寺の一つに数えられる。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。南円堂は西国三十三所第9番札所である。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。
目次

1 歴史

1.1 創建

1.2 南都北嶺

1.3 平重衡の兵火による焼失

1.4 廃仏毀釈による破壊

1.5 現在


2 門跡

2.1 一乗院門跡

2.2 大乗院門跡

2.3 両門跡と世俗権力


3 伽藍と文化財

3.1 中金堂

3.2 東金堂

3.3 五重塔

3.4 北円堂

3.5 南円堂

3.6 三重塔

3.7 西金堂跡

3.8 大湯屋

3.9 菩提院大御堂

3.10 本坊

3.11 食堂跡

3.12 国宝館


4 文化財

4.1 国宝

4.2 重要文化財


5 御詠歌

6 札所

7 アクセス

8 近隣施設

9 参考文献

10 脚注

10.1 注釈

10.2 出典


11 関連項目

12 外部リンク

歴史
創建

藤原鎌足夫人鏡大王の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像本尊として、天智天皇8年(669年山背国山階(現・京都府京都市山科区)に創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源である。壬申の乱のあった天武天皇元年(672年)、山階寺は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。

和銅3年(710年)の平城京への遷都に際し、鎌足の子不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し「興福寺」と名付けた[注 1]。この710年が実質的な興福寺の創建年と言える。中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始されたものと見られる。

その後も、天皇皇后、また藤原家によって堂塔が建てられ、伽藍の整備が進められた。不比等が没した養老4年(720年)には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、元来、藤原氏の私寺である興福寺の造営は国家の手で進められるようになった。
南都北嶺

興福寺は奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家藤原北家との関係が深かったために手厚く保護された。平安時代には春日社の実権をもち、大和国一国の荘園のほとんどを領して、事実上の同国の国主となった。その勢力の強大さは、比叡山延暦寺とともに「南都北嶺」と称された。寺の周辺には塔頭と称する多くの付属寺院が建てられ、最盛期には百か院以上を数えた。中でも天禄元年(970年定昭の創立した一乗院寛治元年(1087年隆禅の創立した大乗院は皇族・摂関家の子弟が入寺する門跡寺院として栄えた。

鎌倉室町時代の武士の時代になっても大和武士[注 2]僧兵等を擁し強大な力を持っていたため、幕府は守護守護大名を置くことができなかった。よって大和国は実質的に興福寺の支配下にあり続けた。安土桃山時代に至って織豊政権に屈し、文禄4年(1595年)の検地では、春日社興福寺合体の知行として2万1,000余石とされた。
平重衡の兵火による焼失

興福寺は創建以来、度々火災に見舞われ、その都度再建を繰り返してきた。中でも治承4年(1180年)、治承・寿永の乱(源平合戦)の最中に行われた平重衡南都焼討による被害は甚大で、東大寺とともに大半の伽藍が焼失した。この時、焼失直後に別当職に就いた信円と解脱上人貞慶らが奔走。朝廷や藤原氏との交渉の結果、平氏政権が朝廷の実権を握っていた時期に一旦収公されて取り上げられていた荘園が実質的に興福寺側へ返却され、朝廷と藤原氏長者、興福寺の3者で費用を分担して、復興事業が実施されることとなった。現存の興福寺の建物は全てこの火災以後のものである。なお仏像をはじめとする寺宝類も多数が焼失したため、現存するものはこの火災以後の鎌倉復興期に制作されたものが多い。興福寺を拠点とした運慶慶派仏師の手になる仏像もこの時期に数多く作られている。

江戸時代享保2年(1717年)の火災の時は、時代背景の変化もあって大規模な復興はなされず、この時焼けた西金堂、講堂南大門などは再建されなかった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:99 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef