この項目では、奈良市の興福寺について説明しています。その他の興福寺については「興福寺 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
興福寺
五重塔と東金堂(共に国宝)
所在地奈良県奈良市登大路町48番地
位置北緯34度40分59.7秒
東経135度49分52.2秒
興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の仏教寺院である。南都七大寺の一つに数えられる。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。南円堂は西国三十三所第9番札所である。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。 藤原鎌足夫人の鏡大王が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年(669年)山背国山階(現・京都府京都市山科区)に創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源である。壬申の乱のあった天武天皇元年(672年)、山階寺は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。 和銅3年(710年)の平城京への遷都に際し、鎌足の子不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し「興福寺」と名付けた[注 1]。この710年が実質的な興福寺の創建年と言える。中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始されたものと見られる。 その後も、天皇や皇后、また藤原家によって堂塔が建てられ、伽藍の整備が進められた。不比等が没した養老4年(720年)には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、元来、藤原氏の私寺である興福寺の造営は国家の手で進められるようになった。 興福寺は奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家藤原北家との関係が深かったために手厚く保護された。平安時代には春日社の実権をもち、大和国一国の荘園のほとんどを領して、事実上の同国の国主となった。その勢力の強大さは、比叡山延暦寺とともに「南都北嶺」と称された。寺の周辺には塔頭と称する多くの付属寺院が建てられ、最盛期には百か院以上を数えた。中でも天禄元年(970年)定昭の創立した一乗院と寛治元年(1087年)隆禅の創立した大乗院は皇族・摂関家の子弟が入寺する門跡寺院として栄えた。 鎌倉・室町時代の武士の時代になっても大和武士[注 2] と僧兵等を擁し強大な力を持っていたため、幕府は守護や守護大名を置くことができなかった。よって大和国は実質的に興福寺の支配下にあり続けた。安土桃山時代に至って織豊政権に屈し、文禄4年(1595年)の検地では、春日社興福寺合体の知行として2万1,000余石とされた。 興福寺は創建以来、度々火災に見舞われ、その都度再建を繰り返してきた。中でも治承4年(1180年)、治承・寿永の乱(源平合戦)の最中に行われた平重衡の南都焼討による被害は甚大で、東大寺とともに大半の伽藍が焼失した。この時、焼失直後に別当職に就いた信円と解脱上人貞慶らが奔走。朝廷や藤原氏との交渉の結果、平氏政権が朝廷の実権を握っていた時期に一旦収公されて取り上げられていた荘園が実質的に興福寺側へ返却され、朝廷と藤原氏長者、興福寺の3者で費用を分担して、復興事業が実施されることとなった。現存の興福寺の建物は全てこの火災以後のものである。なお仏像をはじめとする寺宝類も多数が焼失したため、現存するものはこの火災以後の鎌倉復興期に制作されたものが多い。興福寺を拠点とした運慶ら慶派仏師の手になる仏像もこの時期に数多く作られている。 江戸時代の享保2年(1717年)の火災の時は、時代背景の変化もあって大規模な復興はなされず、この時焼けた西金堂、講堂、南大門などは再建されなかった。
目次
1 歴史
1.1 創建
1.2 南都北嶺
1.3 平重衡の兵火による焼失
1.4 廃仏毀釈による破壊
1.5 現在
2 門跡
2.1 一乗院門跡
2.2 大乗院門跡
2.3 両門跡と世俗権力
3 伽藍と文化財
3.1 中金堂
3.2 東金堂
3.3 五重塔
3.4 北円堂
3.5 南円堂
3.6 三重塔
3.7 西金堂跡
3.8 大湯屋
3.9 菩提院大御堂
3.10 本坊
3.11 食堂跡
3.12 国宝館
4 文化財
4.1 国宝
4.2 重要文化財
5 御詠歌
6 札所
7 アクセス
8 近隣施設
9 参考文献
10 脚注
10.1 注釈
10.2 出典
11 関連項目
12 外部リンク
歴史
創建
南都北嶺
平重衡の兵火による焼失
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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