山陵
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出典検索?: "天皇陵" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2017年8月)
雄略天皇丹比高鷲原陵大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)太田茶臼山古墳(伝継体天皇陵)

天皇陵(てんのうりょう)は、天皇
概要

皇室典範昭和22年1月16日法律第3号)第27条により、天皇・皇后皇太后太皇太后を葬る所を陵(みささぎ/りょう)または御陵(みささぎ/ごりょう)、その他の皇太子親王などの皇族を葬る所を墓(はか/ぼ)と定められている。同附則第3項で、当時治定されていた陵及び墓は、第27条の陵及び墓とされた[注釈 1]

そのため、実際には天皇・皇后・皇太后・太皇太后の陵の他にも、「尊称天皇」・「追尊天皇」・「尊称皇后」の墓所や、いわゆる「神代三代」(日向三代天津日高彦火瓊瓊杵尊天津日高彦火火出見尊彦波瀲武??草葺不合尊)の墓所、日本武尊の白鳥伝承に基づく白鳥陵[注釈 2]飯豊青皇女(飯豊天皇とも)の墓所は「陵」と称されている。

これらのほか、宮内庁が現在管理しているものには、分骨所・火葬塚・灰塚など陵に準じるもの、などを納めた髪歯爪塔などの一種の供養塔、古代の(もがり)の地である殯斂地、被葬者を確定できないものの皇族の墓所の可能性が考えられる陵墓参考地などがあり、一般にはこれらを総称して陵墓(りょうぼ)という。

陵墓に指定されている古墳(陵墓古墳)のうち、天皇陵は41基、皇后陵は11基、皇太子などの墓は34基であり、天皇、皇后、皇子等を合葬したものを差し引くと合計85基ある。

宮内庁管理の陵墓は、北は山形県から南は鹿児島県まで1都2府30県にわたって所在している。陵は歴代天皇陵が112、皇后陵など76で計188である。皇族等の墓は555。分骨所・火葬塚・灰塚などの陵に準じるものが42、髪歯爪塔(はっしそうとう)などが68、陵墓の可能性がある陵墓参考地が46あり、総数は899である。所在地が重複するものもあるので、箇所数は460となる[1]

これら陵墓は現在も皇室及び宮内庁による祭祀が行われており、研究者などが自由に立ち入って考古学的調査をすることができない。調査には宮内庁の認可を要するが、認可されて調査が実際に行われた例は数えるほどしかない。しかしながら調査の許可を求める考古学会の要望もあり、近年は地元自治体などとの合同調査を認めたり、修復のための調査に一部研究者の立ち入りを認めるケースも出てきている[2]

諸外国の陵墓と比較して天皇陵の調査が進まないのは、天皇陵は現在も続いている王朝の陵墓だからだとの指摘がある[誰によって?]。世界遺産始皇帝陵エジプトのピラミッドの被葬者の王朝は現在は途絶えているのに対し、日本の皇室建国から一貫して続いているものとされており(万世一系)、たとえ古代の天皇陵であっても現皇室の祖先の陵墓で有ることから、それを調査すること自体が非常に抵抗の大きいものだとの主張がある[3]

宮内庁は2018年10月15日、仁徳天皇陵の一部について発掘調査を実施すると発表した。宮内庁の担当者は「陵墓は長年、地元の力で守られてきた。より一層適切な管理をしていくため、地域の協力が欠かせないと判断した」としている[4]。2019年7月6日、仁徳天皇陵を含めた「百舌鳥・古市古墳群」が、宮内庁が治定している天皇陵の中で初めて、世界遺産に登録された。
変遷北白川陵(後二條天皇陵)泉涌寺山内の月輪陵。後水尾天皇から孝明天皇までの歴代25の天皇が葬られている

@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}天皇が大王(おおきみ)と呼ばれていた古墳時代には、その陵は巨大な前方後円墳だった(9代開化陵?30代敏達陵)。7世紀になり、ヤマト王権が大陸の政治システムの影響を受けるようになると大型の方墳円墳へと変化し、さらに7世紀中頃から8世紀初頭まで、大王陵には八角墳が採用されるようになる(舒明天皇陵の段ノ塚古墳天智天皇陵の御廟野古墳天武持統合葬陵の野口王墓古墳文武天皇陵の中尾山古墳)。このような特別な八角墳が大王にのみ採用されたのは、畿内を中心とした首長連合の盟主であった大王の地位を、一般の首長を超越して中国天子のような唯一の最高権力者として地位を確立しようとして形に表したという解釈がある[要出典]。

また、都周辺の特定の地域に陵墓地区を設けることが行われ、奈良時代の天皇陵の多くが平城京の北郊に築かれ、長岡京でも同様の北郊に天皇陵が築かれる予定であった(長岡京で崩御した天皇はいないが、桓武天皇の生母・后妃の陵墓が存在する)。平安京にも同様の計画があったとされているが、在地豪族らの反対もあって断念され、以後の天皇も自身とゆかりのある場所の近くに陵墓を造営するようになった[5]

院政期の白河天皇鳥羽天皇近衛天皇に至って仏式の堂に納骨する方式が現れ、江戸時代後水尾天皇以後は孝明天皇に至るまで代々泉涌寺京都市東山区)内に石造塔形式の陵墓が建立された。幕末になり尊皇思想が高揚すると天皇陵にも復古調が取り入れられ、孝明天皇陵は大規模な墳丘を持つ形式で築造された。明治天皇陵の伏見桃山陵は、天智天皇陵に範を取ったといわれる上円下方墳が採用され、以降、今日に至っている。また、皇后陵は中国の古式に則って(例西太后の「定東陵」)天皇陵の東に造営されることになった。そのため皇后陵は「○○東陵(○○のひがしのみささぎ)」と呼ばれる。

大正天皇(即ち東京奠都)以後、天皇・皇后の陵は東京都八王子市の御料地内に作られることになり、武蔵陵墓地が成立した。一方、その他の皇族の墓は明治天皇の皇子(稚瑞照彦尊)の薨去を契機として東京都文京区大塚護国寺裏山に設けられることとなり、現在、豊島岡墓地となっている。
火葬と土葬

奈良時代から平安時代初頭にかけての天皇陵は、土葬される例(聖武天皇)や、墳丘を作ったと思われる事例(桓武天皇)を経て、仏教思想の影響により、火葬の導入(最初に天皇で火葬を行ったのは第41代持統天皇)や火葬後に散骨して大規模な造営を行わない事例(淳和天皇)などが見られるようになる。


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