「山陰中央鉄道」はこの項目へ転送されています。同社が運営していたもう一方の路線である広瀬線については「一畑電気鉄道広瀬線」をご覧ください。
法勝寺電鉄線
南部町「キナルなんぶ」内で保存されているデハ203
概要
現況廃止
起終点起点:米子市駅(本線)、阿賀駅(母里支線)
終点:法勝寺駅(本線)、母里駅(母里支線)
駅数10駅(本線)、5駅(母里支線・阿賀駅は本線のみに計上)
運営
開業1924年7月8日 (1924-07-08)
廃止1967年5月15日 (1967-5-15)
所有者法勝寺鉄道→伯陽電鉄→
山陰中央鉄道→日ノ丸自動車
使用車両車両の節を参照
路線諸元
路線総延長12.4 km (7.7 mi)(米子市-法勝寺間)
5.5 km (3.4 mi)(母里支線)
軌間1,067 mm (3 ft 6 in)
電化直流600 V 架空電車線方式
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停車場・施設・接続路線(廃止当時)
凡例
米子電車軌道:灘町線
←国鉄:山陰本線→
10.7
0.0
阿賀
法勝寺電鉄線(ほっしょうじでんてつせん)は、かつて鳥取県米子市と同県西伯郡西伯町法勝寺(現・南部町)の間を結んでいた日ノ丸自動車の鉄道路線である。 1924年(大正13年)に法勝寺鉄道という名前で開業し、地元では、開業当時の名前から「法勝寺電車」と呼ばれることが多かった。翌1925年(大正14年)に社名を伯陽電鉄に改めている。ちなみにこの社名は、『日ノ丸自動車八十年史』(同社、2012年)では伯耆と山陽を結ぶ意図を持っていたことからとしているが、『新修米子市史』第三巻(同市、2007年)では「伯陽の陽は旧国名の一字下につける美称で、伯州の意」としている[1][注釈 1]。 山陽地方への延伸は行われなかったものの、同規模の地方鉄道としては珍しく、鳥取県から県境を越えて島根県の母里(現・安来市伯太町母里)までの母里支線を1930年(昭和5年)に開業させている。しかしながら母里支線の営業成績は芳しくなく、不要不急線に指定され、開業から僅か14年の短命に終わった。 その後山陰中央鉄道を経て、1953年(昭和28年)に地元のバス会社である日ノ丸自動車が吸収合併し、同社鉄道部(電車部)となったが、1960年代のモータリゼーションの進行に勝てず廃止となった。 ※本線・母里支線とも廃止直前のデータ。 1959年(昭和34年)時点で、米子市 - 法勝寺間は1日15往復、おおむね約60分毎の運転だった。
概要
路線データ
路線距離(営業キロ):本線12.4km、母里支線5.5km
軌間:1067mm
駅数:本線10駅、母里支線5駅(起終点駅含む。阿賀駅は本線のみに計上)
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:全線電化(直流600V)
手間変電所[2]。以前は安養寺変電所、回転変流器(交流側450V直流側600V)直流側の出力100KW、常用1、予備1、製造所明電舎[3]
閉塞方式:
運行形態
歴史
1922年(大正11年)
11月16日: 法勝寺軽便鉄道に対し鉄道免許状下付(西伯郡米子町-同郡法勝寺村間 動力蒸気)[4]
12月28日: 法勝寺鉄道株式会社設立[5][6]
1923年(大正12年)7月17日:動力を電気に変更[7]
1924年(大正13年)
7月8日 : 法勝寺鉄道 米子町(後の米子市) - 大袋間開業(旅客運輸)[8]
7月18日: 鉄道免許状下付(西伯郡法勝寺村-能義郡井尻村間)[9]
8月12日 : 大袋 - 法勝寺間開業(旅客運輸)[10]
1925年(大正14年)2月12日 : 伯陽電鉄に社名変更[11]
1927年(昭和2年) : 米子町駅を米子市駅に改称
1930年(昭和5年)1月1日 : 阿賀 - 母里間の支線を開業[12]
1937年(昭和12年)以降 : 与一谷駅、不動尊駅廃止
1944年(昭和19年)
2月11日 : 阿賀 - 母里間の支線を休止
10月31日 : 伯陽電鉄と広瀬鉄道が合併し、山陰中央鉄道となる。前者は法勝寺線・後者は広瀬線となる
1948年(昭和23年)4月1日 : 広瀬線を島根鉄道(後に一畑電気鉄道に合併)として分離
1951年(昭和26年)12月20日 : 大国駅開業
1952年(昭和27年)- 1966年(昭和41年)頃 : 宗形神社前駅廃止
1953年(昭和28年)9月15日 : 日ノ丸自動車が山陰中央鉄道を吸収合併。同社の法勝寺電鉄線となる
1957年(昭和32年)4月18日 : 朝6時20分頃、長砂地内S字カーブ(現在の米子南インターチェンジ付近)に於いて法勝寺駅5:48発の一番電車が米子市駅6:14発の回送電車と正面衝突、7名重軽傷
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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