山部善次郎
[Wikipedia|▼Menu]

山部 善次郎
出生名山部 洋之
[1]
別名山善 (YAMAZEN)
生誕 (1954-09-25) 1954年9月25日(64歳)
出身地 日本福岡県福岡市博多区千代町
学歴九州産業大学商学部経済学科卒業
ジャンルロック
職業ギタリスト
作曲家
画家
担当楽器ギター
活動期間1968年 -
レーベルレーベルヤバン
共同作業者アーバンブルースバンド(1968年結成)
農協リバイバル(1971年結成)
田舎者(1972年結成)
博多テディボーイズ(1974年結成)
スマイル(1975年結成)
ザ・ドリル(1976年結成)
山善&博多パラダイス(1979年[2]結成)
公式サイト ⇒YAMAZEN OFFICIAL WEB SITE

山部 善次郎(やまべ ぜんじろう、1954年9月25日 - )は福岡県出身のミュージシャン。通称、山善(YAMAZENとも表記)。本名の山部 洋之名義で活動していたこともある。「博多の爆発男」「ダイナマイト男」「和製ジョン・リー・フッカー」と呼ばれる[3]。博多・めんたいロックの核を担う存在と目されている[4]
目次

1 経歴

2 ディスコグラフィ

3 映画出演

4 脚注・出典

5 外部リンク

経歴

福岡市博多区千代町に生まれ育つ。生家は紙の卸問屋「有限会社紙ヤマベ(株式会社山部紙店)」。福岡教育大学附属福岡小学校[2]時代から洋楽を聴いていた[5]福岡市立警固中学校3年の時、卒業キャンプで好きな子にローリングストーンズの『テル・ミー』を歌おうと練習を始めたことから音楽の道に入る[6]

1970年[7]、高圧電線で6600ボルトに感電する事故に遭い、左目と鼻を失う[6][8]1972年博多商業高等学校[2]在学中、ビートルズやモンキーズの影響でバンドを結成[5]。博多の伝説的なライブハウス「照和」のオーディションを受け、バンド「田舎者」のメンバーとして「照和」のステージに立つ[9]。その後、九州産業大学商学部経済学科に進学[2]。21歳の頃、山部善次郎と名乗り始める[2]

バンド「ザ・ドリル」で活動し、1978年には当時のバンド「山善&博多パラダイス」に[10]徳間ジャパンからアルバムリリースの話があり、メジャーデビューする寸前まで行ったが、録音の出来映えに満足しなかったためにこの話を断り、23歳の時に「ザ・ドリル」を解散[11]。24歳で自らの音楽的才能に見切りをつけ、家業の紙問屋を手伝うために愛媛県松山市へ移住[12]。製紙会社「オリエンタル製紙」で1年間修業した後[13]、博多に帰って家業を継ぎ、紙の配達の仕事を4年間続けたが、29歳のとき仕事で車を運転中にFMラジオからアクシデンツの『雨のメインストリート』がかかってきたのを聴いたのがきっかけで音楽の道に戻る決意を固め、30歳でファーストシングル『キャデラック』を完成[14]。34歳の時、メジャーレーベルからの初アルバム『山善フォークジャンボリー』をコロムビアレコードからリリース。

音楽活動の傍ら、39歳の時から油絵を描き始め、福岡県立美術館で個展を開催し、福岡県展や朝日新聞賞への入賞歴がある[15]。山部の半生は、2003年に『JNN九州・沖縄ドキュメント ムーブ』で取り上げられたこともある[16]。博多在住。
ディスコグラフィ

この節の加筆が望まれています。

映画出演

BIG RETURNS(2010年)

6600ボルト(2015年公開)監督:下本地崇
[17][18]

脚注・出典^「三叉路の交差点」2014年09月13日 14:30


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:16 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef