山藤章二
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山藤 章二
本名同じ
生誕 (1937-02-20)
1937年2月20日(87歳)
東京市目黒区
国籍 日本
職業漫画家イラストレーター
活動期間1960年 - 現在
ジャンル似顔絵風刺漫画
代表作『世相あぶり出し』
『山藤章二のブラック・アングル』
受賞第1回講談社出版文化賞(さし絵部門。1970年
第17回文藝春秋漫画賞1971年
第31回菊池寛賞1983年
第9回スポニチ文化芸術大賞(2001年
紫綬褒章2004年) 他
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山藤 章二(やまふじ しょうじ、1937年昭和12年)2月20日 - )は、日本の似顔絵作家、風刺漫画家イラストレーター、笑芸プロデューサー。タレントや話題の人物を現代の世相に合致させた作風が特徴とされる。東京市目黒区出身。
略歴

1937年東京府東京市(※ 現在は東京都特別区区域目黒区生まれ。四人兄弟の二男。父は目黒駅助役をしていたが、生後4ヶ月で父を亡くし、貧しい母子家庭で苦労して育つ[1]。母は目黒駅の売店(現キヨスク)で23年間働いた[1]。戦争中の1943年、親類のいた三重県伊勢市疎開したが地元の子供たちからいじめを受ける。戦後に東京目黒へ戻る。三木鶏郎に傾倒し、冗談工房への参加を夢見る。立正中学校・高等学校に進み、高校で美術部に入部。美術部時代の親友に多田ヒロシがいる[2]

1956年1957年東京芸術大学図案科の入試に2年連続で失敗[3]。家が貧しかったため、親戚から借金して武蔵野美術学校デザイン科に入学。芸大への思いを断ち切れず、武蔵野美大に籍を置きながら画塾に通ってデッサンの練習を重ねるも、計3度にわたる失敗で芸大入学を断念。しかし、このときデッサンを猛勉強したことが、後々になっても山藤の確かな技術を支えることとなった。

1957年、武蔵野美大在学中に日本宣伝美術会展で特選を受賞する。

1960年に大阪国際フェスティバルで海外向けポスター・コンテストで特賞を受賞し、(株)ナショナル宣伝研究所にデザイナーとして入社後、広告電通賞(ポスター部門)制作者賞受賞。

翌年1961年には広告電通賞(ダイレクトメール部門)製作者賞、毎日商業デザイン賞(新聞部門)をそれぞれ受賞。この間、同年1月1日に5歳上の木村米子(コント作家、DJ構成者)と結婚[4]1963年東京アートディレクターズクラブ賞(新聞部門)銅賞を受賞し、翌年からナショナル宣伝研究所を退職してフリーとなる。この間、1963年に長女が誕生[5]。「名前をアピールするんなら、誰か有名な作家のさし絵を描かせて貰うのが一番手っとり早い」との妻の提案で松本清張のもとにイラストを持参[6]。すぐに気に入られ、清張の新連載で挿絵を担当することとなる[7]。これを機に方々から仕事の注文が入るようになり、1970年講談社出版文化賞(第1回)さしえ賞受賞。1971年文藝春秋漫画賞受賞。

1971年から「世相あぶり出し」などのイラストによる世相風刺で話題を集め、1976年から「山藤章二のブラック=アングル」(後に「山藤章二のブラック・アングル」)を『週刊朝日』(朝日新聞社朝日新聞出版)に連載、「週刊朝日を最終ページから開かせる男」の異名をとる。また1981年から『週刊朝日』誌上で「山藤章二の似顔絵塾」を開講。塾生にはプロのイラストレーターに育った人も多い。1983年菊池寛賞を受賞。この間、1975年に胃潰瘍で倒れ、胃の3分の2を切除[8]

イラストに掲載されるサインはデビュー以来「YAMAFuji'00」の形を用いていたが、1993年から「山」を草書体ふうにデザインしたサインを用い始めた。1996年から縦書きの「章二」の印章を用いるようになった。

1999年郵政省による「平成十一年 笑門来福 落語切手」の原画を描く。描いたのは古今亭志ん生(五代目)火焔太鼓」、桂文楽(八代目)船徳」、三遊亭圓生(六代目)小言幸兵衛」、柳家小さん(五代目)時そば」、桂米朝(三代目)百年目[9]

2002年の日米首脳会談で山藤の描いた「流鏑馬」のイラストが、小泉総理によって米ブッシュ大統領に手渡されている。

2004年紫綬褒章受章[10]

人物

多数の受賞がある。「現代の戯れ絵師」を自認している。

幼少時から
寄席通いをして落語に親しんでいたこともあり、笑芸人に対する造詣が深く、笑いについての対談集の刊行や、笑芸のプロデュースを行っていた。落語立川流顧問の一人であり、2001年12月の立川談志のお別れの会では弔辞を述べている。1995年より年1回、紀伊国屋ホールにて「寄席山藤亭」という名称で、年に1回、山藤のプロデュースによる笑芸人の公演を行い、立川談志イッセー尾形の独演会などを企画していた。

阪神タイガースファンとしても有名。「ブラックアングル」にも阪神絡みのイラストは多い。

朝日新聞の似顔絵イラストも担当しており(1974年から現在まで)、1996年にはこれらを集めた『山藤章二の顔辞典』(朝日文庫)が発売された。

2021年11月22日発売の週刊朝日12月3日号をもって、「ブラック・アングル」と「山藤章二の似顔絵塾」は同時に最終回を迎えた。似顔絵塾は松尾貴史が塾長として受け継ぎ、さらに週刊朝日が2023年5月で休刊したことを受け、7月からはサンデー毎日で月1回の連載として継続することとなった[11][12]

「ブラック・アングル」での逸話

「ブラック・アングル」は実は逆転の発想の産物である。山藤が「
週刊朝日」の仕事に関わるようになったのは1972年からであるが、初の仕事は当時イラストレーターとしては珍しい表紙イラストであった。しかし、山藤の表紙イラストは読者から不評で、1974年の6月限りで終了の憂き目に遭う。とはいえ一方で惜しむ声もあったため、巻末ページにイラストを持っていくという形で継続された。以降、山藤は「週刊誌を裏から開かせる男」という呼び名を奉られることになる。


初期は野坂昭如から批判めいた手紙が届いたり、王貞治が「バットで頭を叩き割ってやる」といきり立っていたという噂を聞かされたりした。胃炎を患って中断したこともあった。「ブラック・アングル」の本連載開始が1976年となったのは、胃炎のために1年延びたからである(テスト連載は1974年からスタートし、同年末で終了)。


「ブラック・アングル」の特徴はイラストを黒枠で囲んだ点にあるが、テスト連載時代は赤色などで囲んでいた事もあった。黒枠は試行錯誤の産物である。

時代の諸相

1976年武者小路実篤が死去した際、武者小路がよく書いていた色紙「仲良き事は美しき哉」をパロディーにした作品を掲載した(4月30日号)。野菜の絵を、ロッキード事件の主役の田中角栄児玉誉士夫小佐野賢治の顔に置き換えたもので、下には武者小路がキャラクターのブラック氏を叱り付ける絵が添えられていた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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