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出典検索?: "山石敬之"
山石 敬之(やまいし たかゆき)
Takayuki Yamaishi
出生名山石敬之
生誕 (1959-04-08) 1959年4月8日(65歳)
出身地 日本 東京都新宿区
学歴新宿高校
成城大学法学部
ジャンルJ-POP
職業シンガーソングライター
キーボーディスト
担当楽器ピアノ
キーボード
ボーカル
活動期間1981年 -
レーベルT-Town Music
事務所T-Town Music
共同作業者友部伸裕(作詞)
福田真國(ギター)
公式サイト ⇒Y's Factory(山石敬之オフィシャルサイト
山石 敬之(やまいし たかゆき、本名:同じ、1959年4月8日 - )は、日本のシンガーソングライター、キーボーディスト、スタジオ・ミュージシャン、ライブハウスのオーナー。1981年から1989年7月までSCRAMBLEとして活動。2007年12月末までアルフィー(THE ALFEE)で、サポートメンバーを務める。
提供楽曲で有名な作品に、アニメ『NINKU -忍空-』の主題歌である『輝きは君の中に』がある。
現在は自身のソロ活動やライブハウス「池袋FIELD」のオーナー業を中心に活動している。
バンド「SCRAMBLE」についても併せて記述する。
略歴
出生から大学入学まで(1959年?1979年)
東京都新宿区高田馬場に生を受ける。
4歳でクラシックピアノを始め、14歳で作曲を開始。学生時代にバンド活動を始め、東京都立新宿高校では後に作詞家として長く付き合うこととなる同級生の友部伸裕と出会い、コンビを組む。また、同校には1つ上の先輩で後にユニットを組むことになる浅見昂生もいた。
1979年、成城大学法学部入学。
SCRAMBLE結成・プロ活動開始(1980年?1989年)
1980年、21歳の時に第2回原宿音楽祭ベストキーボード賞を受賞。1981年、成城大学軽音楽部の仲間、相沢美彦(Drs)、石橋和義(G)、香西秀紀(B)と第1期 SCRAMBLE結成、フリーバル'81にて「Night Games」で出場、グランプリ受賞。その後、「Street Runner」を発表。この頃からバックミュージシャンとしてプロ活動開始。バックをつとめたミュージシャンに当時人気声優であった水島裕などが居る。水島には「無邪気な関係」などで楽曲提供もしていた。
1982年、相沢美彦(現あいざわ元気)(Drs)、福田真國(G)、新村清之(B)のメンバーで第2期SCRAMBLEを始動。以降、各地ライブハウスで本格的に活動を開始。同年夏にALFEE(THE ALFEE)に野外コンサートにキーボーディストとして参加。以降ライブ、レコーディングへ参加するようになる。
1985年にSCRAMBLEは新村清之(B)が脱退。一井雅樹(B)が加入し第3期がスタート。全国規模のツアーを展開。自身のバンド活動とアルフィーのサポートメンバーの両立に悩んだ末、その年の12月にALFEEのツアーから離れる。
1987年4月4日、SCRAMBLEはデビュー前に渋谷公会堂にて初ホールコンサートを成功させ、続く6月にアルバム「東京千一夜物語」とシングル「愛の放浪者?Odyssey?」を引っさげ、SMSレコードよりデビューしたが、直後にレコード会社が社長の急逝により消滅となる[1]。
1988年2月7日、自身最大のステージとなったという日本青年館にてコンサートを行う。この公演をもって活動を一時休止。
1989年4月 SCRAMBLE としてポリドール(現在のユニバーサルミュージック)からアルバム「After Five Avenue」シングル「とても子供だった」を発売し、再デビューとなる。同年7月に発売されたシングル「週末(ウィークエンド)は旅人」がテレビ朝日「OH!エルくらぶ」(当時の司会は田中康夫)テーマソングとなる。