山県半蔵
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本来の表記は「宍戸?」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。

宍戸 ?(ししど たまき、1829年4月18日文政12年3月15日) - 1901年明治34年)10月1日)は、江戸時代末期(幕末)の長州藩士、および明治時代の政治家官僚子爵)。前名の山県半蔵でも知られる。
略歴

1829年(文政12年)、長州藩士の安田直温の三男として生まれる。幼名は辰之助。は子誠、のち敬宇。吉田松陰らと共に玉木文之進の塾(松下村塾)に学び、また藩校明倫館に学ぶ。1848年嘉永元年)藩儒の山県太華の養子となり、半蔵と称する。1854年安政元年)には幕府の役人村垣範正に従い、蝦夷地および樺太露国巡視を行う。翌年には長崎へ遊学。その頃から諸藩の志士と交流し、1857年(安政5年)藩に戻ると、明倫館都講本役に任ぜられ、世子・毛利定広(のち元徳)の侍講となった。1860年万延元年)定広に従って江戸へ赴き国事に奔走する。1862年文久2年)には同藩の久坂玄瑞土佐藩中岡慎太郎らとともに松代藩で謹慎中の学者佐久間象山を訪問。長州藩へ招聘するも叶わなかったが、国際情勢や国防論について薫陶を受ける。翌年帰藩した後、九州諸藩に尊王攘夷論を遊説。同年の八月十八日の政変後は京阪に潜伏して形勢を視察した。

その後も長州藩は尊王攘夷運動に邁進するが、禁門の変の敗北、下関への四国連合艦隊襲来により窮地に陥る。長州藩は恭順派(俗論派)の牛耳るところとなり、半蔵も禁固されるが、高杉晋作伊藤博文らの挙兵によって藩論が再転換し、赦免される。しかし幕府は長州藩へ問罪使の派遣を決定。同藩は山県半蔵を家老宍戸家の養子として宍戸備後助と改名させ、広島国泰寺で幕府問罪使永井尚志に応接させた。交渉の長期化に伴い、広島藩に拘留されたが、翌年の第二次長州征伐開戦にあたり、幕府側の敗戦の調和策として放免された。この間の功績を認められ、宍戸家の末家を新たに建てることを認可され、直目付役に任ぜられた。

明治維新後は、1869年(明治2年)山口藩権大参事となる。翌年上京し、10月に刑部少輔。1871年(明治4年)11月には司法大輔。1872年(明治5年)には文部大輔となる。1877年(明治10年)元老院議官となる。1879年(明治12年)3月には国駐剳全権公使に任命された。琉球藩を廃止し沖縄県を設置した(琉球処分)直後であり、琉球の帰属問題が両国間の懸案となっていたが、宍戸は琉球に対する日本の領有権の法的根拠を明記した寺島宗則井上馨外務卿の覚書を清国総理衙門へ提出、翌年交渉は妥結する。しかし清朝の重臣李鴻章らの反対により調印には至らず、1881年(明治14年)1月には交渉を打ち切って帰国した。

帰朝翌年には宮内省出仕となり、1884年(明治17年)4月には参事院議官。1885年(明治18年)12月には再び元老院議官。1887年(明治20年)5月にはこれまでの功績を認められ子爵に叙爵。1890年(明治23年)帝国議会の発足に際し貴族院議員に任命され、錦鶏間祗候となる。

1901年(明治34年)10月没。享年73。
参考文献

国史大辞典』(吉川弘文館)「宍戸?」(執筆:河村一夫)

『日本史大事典 3』(平凡社1993年ISBN 4582131034)「宍戸?」(執筆:井上勲

『明治維新人名事典』(日本歴史学会編、吉川弘文館1981年)478ページ「宍戸?」

外部リンク

国立国会図書館 憲政資料室 宍戸?関係文書(その1)

国立国会図書館 憲政資料室 宍戸?関係文書(その2)
カテゴリ: 宍戸氏幕末維新側人物明治時代の人物貴族院子爵議員日本の外交官日本の宮内庁関係者1829年生1901年没

更新日時:2009年12月9日(水)18:50(日時は
取得日時:2010/01/11 01:32


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