山田(やまだ)は三重県伊勢市の地名である。伊勢神宮外宮の鳥居前町として成熟してきた地域であり、現在の伊勢市街地に相当する。古くは「ようだ」「やうだ」などと発音した。 宮川と勢田川に挟まれた平地に位置し、室町時代以来現在に至るまで伊勢の中心として機能している。また伊勢市駅や宇治山田駅が交通の拠点となっているほか、政治・経済等の面において広く南勢(伊勢志摩)地域の中心としての役割を担っている。
概要
類似した地名に山田原
『伊勢市史』によると「山田」の範囲は以下の地区である。
※名称は1889年(明治22年)4月1日に町村制が施行され、宇治山田町が成立する以前のものである。☆は1868年(明治元年)12月に翌年の明治天皇の行幸を見越して改称された地区。
倭町☆ - 常明寺門前町より改称
尾上町(おのえ)☆ - 妙見町より改称
岡本町
岩淵町 - 現行の表記は「岩渕」が多い。
吹上町
河崎町
船江町
一之木町
豊川町
田中中世古町 - 1908年(明治41年)1月、本町に改称。
宮後町(みやじり)
一志久保町 - 1955年(昭和30年)1月、一志町に改称。
大世古町
曽祢町
八日市場町
下中之郷町 - 1931年(昭和6年)10月、宮町に改称。
常磐町☆ - 上中之町より改称
浦口町
二俣町
辻久留町(つじくる)
中島町
宮川町☆ - 中川原より改称
歴史伊勢神宮外宮と山田
山田の歴史は深く、倭町で弥生時代の竪穴建物跡が発見されるなど、有史以前から人々が居住していたことが分かっている[1]。しかし、宮川や豊川はたびたび氾濫を起こしたため、実際に定住が進み集落が形成されたのは雄略天皇22年(西暦478年)に豊受大神が山田原に鎮座[2]して以降だと考えられている。
中世に入ると朝廷からの資金が滞るようになったことに加え、荘園勢力の台頭により山田は衰退の一途をたどることになる。そこに外宮の禰宜度会家行が現れ、伊勢神道(度会神道)を興す。これは外宮の祭神が内宮よりも神格が上であると主張するもので、山田の地位向上に大いに効果を発揮した。更に御師の活躍で全国に檀家を持つようになり、復興を果たしたと共に地理的な特性[3]もあり、室町時代頃には内宮を擁する宇治を上回る規模に発展した。
この頃山田と宇治の対立が激化し、たびたび町や神宮が炎上していた。また、代々の神官家と新興勢力との対立・衝突も見られた。
こうして力を付けた山田には郷(村)ごとに惣が結成され、それらをまとめる団体として山田三方が組織された。山田三方は神宮と深いつながりを持つ土倉などの有力者から構成され、座の営業権などを取り決める自治組織としての役割を果たした。その規模は、堺や博多に並ぶものであったとされる。この山田三方は明治時代に近代国家が成立するまで山田の自治組織として続いた。
近世になるとお蔭参りの流行などにより、町はますます発展していった。こうした中、徳川家康は宮川以東の神領を管轄するため慶長8年(1603年)山田奉行所を山田吹上に置いた[4]。この時代、日本の最初の紙幣(手形)と言われる「山田羽書」が発行されている。[5]
明治時代になると伊勢神宮が国家神道の頂点とされたため神都の顔として更に発展していく。1889年(明治22年)には対立関係にあった宇治と合併して宇治山田町(うじやまだちょう)に、1906年(明治39年)には津市・四日市市に次いで三重県で3番目に市制を施行した。山田には市役所がおかれたほか、明治の初期には度会府・度会県[6]の府庁・県庁の所在地でもあった。
神都の交通機関として、戦前までに参宮鉄道(現JR参宮線)・参宮急行(現近鉄山田線)・伊勢電(現在は廃止)が相次いで乗り入れ、それらの終点駅が山田に開業した。市内交通も発達し、神都線(路面電車)や御幸道路も整備された。