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生年月日天保15年10月9日
(1844年11月18日)
出生地長門国阿武郡椿郷東分
(現在の山口県萩市)
没年月日 (1892-11-11) 1892年11月11日(47歳没)
死没地兵庫県朝来市生野町生野銀山
出身校松下村塾
前職武士(長州藩士)
陸軍軍人
称号 陸軍中将
正二位
勲一等旭日桐花大綬章
伯爵
配偶者山田龍子
子女山田金吉(長男)
山田梅子(長女)
親族村田清風(大伯父)
山田顕行(父)
山田亦介(伯父)
河上弥市(再従兄)
山田英夫(娘婿)
初代 司法大臣
内閣第1次伊藤内閣
黒田内閣
第1次山縣内閣
第1次松方内閣
在任期間1885年12月22日 - 1891年6月1日
第5代 司法卿
在任期間1883年12月12日 - 1885年12月22日
第8代 内務卿
在任期間1881年10月21日 - 1883年12月12日
第3代 工部卿
在任期間1879年9月10日 - 1880年2月28日
元老院議官
在任期間1878年3月5日 - 1879年9月10日
その他の職歴
貴族院伯爵議員
(1890年7月10日 - 1892年4月1日)
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山田 顕義(やまだ あきよし、旧字体:山田 顯義、天保15年10月9日〈1844年11月18日〉- 明治25年〈1892年〉11月11日)は、日本の政治家、陸軍軍人[1]。諱は顕孝(あきたか)、のちに、顕義に改めた。通称は市之允(いちのじょう)。号に養浩斎、狂痴、韓峰山人、不抜、空斎など。別名は山田 空斎(やまだ くうさい)。陸軍中将。正二位勲一等伯爵。 明治維新期の軍人として新政府に貢献するとともに、新日本の設立者として、近代日本の法典編纂に尽力したことから法典伯の異名を持つ[2][3]。日本法律学校を創立するうえで評議員の一人として特に関わり、日本大学の学祖とされる。 吉田松陰が営む松下村塾に最年少の14歳で入門、最後の門下生となる[4]。25歳の時に戊辰戦争で討伐軍の指揮をとる。その際、西郷隆盛から「あの小わっぱ、用兵の天才でごわす」、軍才から「用兵の妙、神の如し」との名言があり「小ナポレオン」とも称された[5]。岩倉使節団の一員としてフランスを訪問した際、ナポレオン法典と出会い、「法律は軍事に優先する」ことを確信し、以後一貫して法律の研究に没頭する。約9年間にわたり司法大臣として近代国家の骨格となる明治法典
生涯
誕生から松下村塾入塾まで松下村塾
天保15年(1844年)10月9日、長門国阿武郡椿郷東分[注 1](現・山口県萩市)で、長州藩士である山田七兵衛顕行(村田光賢の子で山田家の養子となった山田?之の子、大組士、禄高102石[6]、藩海軍頭)の長男として生まれる。伯父に山田亦介、また村田家の血縁でつながる親族に村田清風(大伯父)、河上弥市(再従兄)らがいる。
兵学者・山田亦介の甥でありながら、幼少期の頃に「性質愚鈍、垂鼻頑獣(はなたれだるま)、ほとんど白痴の如し」といわれていた[7]。
安政3年(1856年)、松本村の新山直衛塾に学ぶ。2月、伯父の亦介により、中村九郎と竹内竹叢から兵学を教授される。3月、藩校明倫館に入って師範の馬来勝平から剣術(柳生新陰流)を学び[8]、文久2年(1862年)には柳生新陰流伝中許を得ている。安政4年(1857年)6月、松下村塾に入門した[8]。
安政5年(1858年)、吉田松陰から「与山田生」(詩)「立志尚特異 俗流與議難 不思身後業 且偸目前安 百年一瞬耳 君子勿素餐」と立志の目標が書かれた扇面を与えられる[9]。その内容は「立志は特異を尚(たっと)ぶ、俗流はともに議し難し、身後の業を思はず、且(か)つ 目前の安きを偸(ぬす)む、百年は一瞬のみ、君子 素餐することなかれ[注 2]」である。
幕末期戊辰戦争の図