山田郡_(尾張国)
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山田郡(やまだのこおり)は、かつて尾張国東部に存在したである。戦国時代に廃止され、春日井郡愛知郡に分割編入されたが、その具体的な領域や廃止時期などに不明な点が多い。
郡域

正確な郡域については不明な点が多いが、以下の地域が山田郡に含まれていたことが推定されている[1]

名古屋市の一部(守山区名東区の全域と北区[注釈 1]天白区[注釈 2]千種区[注釈 3]西区[注釈 4]東区[注釈 5]昭和区[注釈 6]の各一部)

瀬戸市の全域

尾張旭市の全域

長久手市の全域

日進市の全域

東郷町の一部

春日井市のごく一部[注釈 7]

歴史
郡名の由来

郡名の由来ははっきりしないが、当郡内の大半が丘陵地で山間部を縫うように河川や氾濫原が形成されている地形に由来するというのが定説である[2]。一方、安閑天皇の皇后春日山田皇女御名代部に由来するという説もある。継体天皇尾張氏をはじめとする地方豪族の支持を受けて即位しており、尾張草香の娘との間に生まれた子が安閑天皇となっている。安閑天皇は短い治世の間に多数の屯倉を設置しており、皇后の屯倉の1つとして尾張におかれた御名代部が山田郡の由来ではないかとするものである。
古代

7世紀後半の制下で置かれた山田評を前身とする。石神遺跡から出土した木簡に「尾治国山田評山田五十戸」と記載があり[3]、この木簡の記述が初見である。『日本書紀』によれば、676年天武天皇5年)9月21日に大嘗祭の悠紀として尾張国山田郡が卜定されたとあるが、この頃は実際には山田評であった。701年大宝律令制定に伴って、評が郡となり山田郡が成立した。

古代の山田郡では「山田荘(やまだのしょう)」と呼ばれる東大寺領の荘園が存在していたことが知られている[4]。山田荘は752年に勅施入され、909年に立券された[4]。遺称地名などから山田荘は現在の守山区・名東区・北区・西区などの地域に該当すると推定されている[4]1285年の『東大寺領諸荘注進状写』を最後に「山田庄」の名は史料上から消えるため[4]、鎌倉期に衰退したと考えられる。

山田郡では古来から窯業が盛んであったことが知られる[5]。特に名古屋市千種区の東山地区や尾張旭市城山の古窯群は古墳時代中期の遺跡として知られ、これらの地域で製造されたとみられる埴輪が名古屋市内の古墳で多く発見されている[5]。『日本後紀815年条には、尾張国山田郡の陶工である三家人部乙麿ら3人が技術伝習を受け雑生として登用されたことが記されている[5]

平安中期に編纂された『和名類聚抄』には以下の郷が記載されている[5]

船木(ふなき)

正確な比定地は不明であるが、倭名類聚抄では概ね国衙から近い順に郷が記載されているため当郷は山田郡内で最も西北に位置していたと考えられる[5]。したがって現在の名古屋市西区・北区の庄内川以南の地域に比定される[5]。北区にかつて存在した船附町(もとは杉村小字名)を遺称地と見る説がある。なお黒笹7号窯から「船木郷」と刻書された陶器片が発見されている[6]


主恵(すえ)

須恵器に関連した地名と想定され、古窯群が多い千種区東部すなわち近世の末森村(末盛通などに名を残す)に比定する説が有力である[5]


石作(いしつくり/いわさく)

750年付の『智識優婆塞貢進文』(正倉院文書)に「尾張国山田郡石作郷戸主日下部建安万呂」とある[7]。長久手市岩作や日進市岩崎に比定する説が有力である[5]。当郷の訓についてはいずれの写本でも訓を欠いていて正確な読みは不明であるが、尾張国中島郡石作郷が「以之豆久利」と訓じられていることから当郷も「いしつくり」と読むことが定説化していた[7]。しかし「石作(いしつくり)」が「岩作(やざこ)」「岩崎(いわさき)」という地名に転じることが考えにくいため、本来は「いわさく」と読んでいたという説がある[8]


志談(したみ)

藤原宮出土木簡に「山田評之太々里」とあり、古くは「之太々」と書いたらしい。この他に「志田美」「志田見」と書く例もみられる[5]。名古屋市守山区志段味(上志段味下志段味)に比定される[5]。和名抄には「志誤」と記されているが誤記だと推定されている[5]


山口(やまくち)

平城宮出土木簡に「山田郡山口郷」とある[5]。瀬戸市山口付近に比定するのが定説である[5]


加世(かせ) 

比定地不詳[5]。遺称地も残っていない。記載順から山口郷と両村郷の間に存在した可能性が高いと考えられるが、両村郷の比定地も不詳であり当郷を正確に比定することはできない。日進市三本木谷とする説、日進市本郷を当郷の本郷と見なす説、日進市岩崎付近とする説[5]、名古屋市天白区平針付近とする説など諸説ある。


両村(ふたむら)

比定地不詳[5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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