日本の政治家山田 豊三郎やまだ とよさぶろう
大津湖岸なぎさ公園にある像
生年月日1922年10月13日
出生地滋賀県野洲郡玉津村赤野井(現・守山市)
本籍地:滋賀県大津市
没年月日 (2009-07-18) 2009年7月18日(86歳没)
死没地大津市
出身校新京法政大学
山田 豊三郎(やまだ とよさぶろう、1922年(大正11年)10月13日[1] - 2009年(平成21年)7月18日)は、日本の政治家。第21代大津市長(1980年 - 2004年)。
市助役などを務めた後、6期にわたり大津市長を務め市の都市整備などを行った。「豊さん」、「山豊さん」のあだ名で親しまれた[2][3]。元全国市長会相談役[4]。大津市名誉市民。旭日中綬章。趣味は映画、歌謡、ダンス[5][4]。
来歴・人物
初期の経歴特修科経済学部卒業[6]。1944年、学徒出陣で遼陽の第33連隊に配属、第120師団輕重隊に配属される[4]。
終戦後、1945年12月に大津市役所に入所、1951年から人事課長、国民健康保険課長、市長公室長、公営企業部長、総務部長、企画部長、建設部長、企画室長を歴任[6]。農地改革や健康保険料の徴収、米軍基地跡の観光施設化などを行った[4]。1972年6月から助役となった。 1980年4月15日、大津市長の山田耕三郎が参院選出馬のため辞職。同年6月6日に後継者に指名され、全政党の推薦を受けて無投票で初当選[2][6]。助役に市企画財政室長の中野久雄、収入役に同市民部長の疋田龍雄が就任した[7]。1984年5月27日にまた無投票で再選した。1988年に「市民を裏切った」として共産党と決別、同年から92年、96年の市長選で3度にわたって共産党候補と一騎討ちとなったが、山田はすべて勝利した[8][9]。 山田は市長として、「市民の心を心とする市政」を信条とし、「人間性の尊重」「市民自治の確立」「環境の保全と創造」の基本理念に10の政策を合わせた「三つの理念と10の政策」をスローガンにした[7][6]。道路、駅や下水道や産廃施設などのインフラストラクチャー整備、老人ホームなど地域福祉施策、小中学校の整備などを行った[6][3]。また、世界水フォーラムや日本女性会議などの誘致も行った[3]。 山田は非常に高齢で、あまりにも多選されたため多くの議論となった[10][11]。山田が在任中に何度も、市長選挙では最低投票率が更新された[11]。長期市政を支えた市の自治会との癒着も議論を呼んだ[12][13]。特に市政を支え続けた、自治連合会長の山本俊一とは「刎頚の友」と呼ばれた[14]。
大津市長