山田耕筰
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山田 耕筰
1952年の山田耕筰。後ろの絵は恩地孝四郎による山田の肖像。
基本情報
別名山田 耕作(出生名、1956年改名)
生誕 (1886-06-09) 1886年6月9日
日本東京府東京市本郷
(現:東京都文京区
死没 (1965-12-29) 1965年12月29日(79歳没)
日本・東京都世田谷区成城
学歴東京音楽学校
ベルリン音楽学校
ジャンルクラシック音楽
職業作曲家
指揮者
活動期間1914年 - 1965年

山田 耕筰(やまだ こうさく、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:山田 耕󠄁筰、1886年明治19年〉6月9日 - 1965年昭和40年〉12月29日)は、日本作曲家指揮者。旧名、山田 耕作(旧字体:山田 耕󠄁作)。

日本語の抑揚を活かしたメロディーで日本音楽史に残る多くの作品を残した。日本初の管弦楽団を造るなど日本において西洋音楽の普及に努めた。また、ニューヨークカーネギー・ホールで自作の管弦楽曲を演奏、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団レニングラード・フィルハーモニー交響楽団等を指揮するなど国際的にも活動している。
生涯関西学院生時代(17歳)

福島藩士医者キリスト教伝道師の山田謙造の子として生まれる。1896年、10歳の時に実父を亡くす。実父の遺言で、巣鴨宮下(現在の南大塚)にあった自営館(後の日本基督教団巣鴨教会)に入館し、13歳まで施設で苦学する。1899年、13歳のとき、姉のガントレット恒を頼り岡山養忠学校に入学[1]。姉の夫のエドワード・ガントレットに西洋音楽の手ほどきを受ける。14歳のとき、関西学院中学部に転校。在学中の16歳秋に初めての作品「MY TRUE HEART」を作曲[2][3]。同本科中退を経て1904年、東京音楽学校予科入学、1908年、東京音楽学校(後の東京芸術大学)声楽科を卒業[4]

1910年(明治43年)から3年間、三菱財閥の総帥岩崎小弥太の援助を受けてドイツベルリン王立芸術アカデミー作曲科に留学し、マックス・ブルッフなどに学ぶ。ベルリン時代の1912年大正元年)には日本人初の交響曲『かちどきと平和』を作曲した。マンハッタンにて(1915-1920年)

帰国後の1914年(大正3年)に、岩崎が1910年に組織した東京フィルハーモニー会の管弦楽部首席指揮者を任されるが、自身の恋愛問題により岩崎が激怒し、資金源を断たれて翌年解散する羽目となる。1917年には渡米し、カーネギーホールで自作を中心にした演奏会を開く。1920年(大正9年)12月には帝国劇場においてリヒャルト・ワーグナーの「タンホイザー」の一部などを日本初演。

1924年(大正13年)には近衛秀麿と共にハルビンのオーケストラ楽員と日本人楽員を交えたオーケストラの演奏会「日露交歓交響管弦楽演奏会」を主宰、これを母体に近衛と日本交響楽協会を設立。これは現在のNHK交響楽団の前身であるが、不明朗経理を理由に内紛が勃発。黒柳徹子の父・黒柳守綱ら4名を残し大部分の楽員は近衛と行動を共にしたため、山田派は崩壊した。弟子には内田元らがいる。

1921年文化学院音楽科主任となる。1926年、40歳の頃、湘南の茅ヶ崎町(現:神奈川県茅ケ崎市)に居を構える(同町に約6年間暮らす)。オーケストラ楽団の失敗により多額の借金を抱えていたが、同地で再起(借金は未済)。「赤とんぼ」などの童謡名曲が数々生まれる[注釈 1]

1930年(昭和5年)、耕作から耕筰へと改名(後述)。1936年(昭和11年)にはレジオンドヌール勲章受章。1937年(昭和12年)には相愛女子専門学校(現:相愛大学)教授に就任。同年6月、ドイツ宣伝省の招きでドイツを訪問。6月22日にはベルリン・フィルハーモニー楽団を指揮した[5]。戦時体制が色濃くなった1940年(昭和15年)には演奏家協会を発足させ、自ら会長に就任する。同年11月にオペラ「黒船」(当初の題名は「夜明け」)を初演。また皇紀2600年奉祝演奏会ではジャック・イベールの新作「祝典序曲」を指揮する。1941年(昭和16年)、朝日文化賞受賞。情報局管轄下の「日本音楽文化協会」が発足、副会長に就任。また音楽挺身隊を結成してしばしば占領地での音楽指導にも携わる。将官待遇となりしばしば軍服姿で行動したため、後の「戦犯論争」の槍玉に挙げられることとなる。1942年(昭和17年)に帝国芸術院会員に選出。1944年(昭和19年)には日本音楽文化協会会長。

終戦後、自身の戦時中の行動に関して、東京新聞音楽評論家山根銀二との間に戦犯論争が勃発[6]。論争が収まった頃の1948年(昭和23年)に脳溢血で倒れ、以後体が不自由となる。1950年(昭和25年)、日本指揮者協会会長に就任し、また放送文化賞を受賞。1956年(昭和31年)、文化勲章を受章。離婚・再婚を機に戸籍上の名前も「耕筰」と改める。なお、サインには“Koscak Yamada”という綴りを使っていた。1956年

1965年(昭和40年)11月上旬、耕筰は聖路加国際病院に入院していたが、家族が東京都世田谷区成城5丁目に広壮な洋館風の邸宅を借りる。同年12月4日、耕筰は成城の自宅に退院してくる。そして12月29日、自宅2階の南向き10畳間で耕筰は心筋梗塞により死去した。享年80(満79歳没)。墓所は東京都あきる野市西多摩霊園[7]
家族

父・山田謙造 - 医師。板倉藩
御殿医の家系。

母・久 - 板倉藩目付の娘。謙造とは再婚。

姉・ガントレット恒

妻・永井郁子(1893-1983)- 声楽家。1915年に結婚、翌年離婚

妻・村上菊尾(河合磯代、1893年生)- 幼馴染で帝劇女優。1916年に結婚、1956年離婚[8]

妻・辻輝子(1907-1973)- 声楽家。1956年に結婚

長女・美沙(1917年生)

長男・山田耕嗣(1920年生)- 暁星、慶大を経てエールフランスなど外資系勤務ののち横浜船員クラブ「ユナイテッドシーメンズクラブ」支配人[9]

二女・日沙(1926年生)- 修道女[10]

養女・山田浩子 - 日本楽劇協会理事長[11]

母方叔母・大塚かね - ハンセン病施設「慰廃園」を夫で牧師の大塚正心とともに運営した[12]

山田のオーケストラ運営
東京フィルハーモニー会詳細は「東京フィルハーモニー会」を参照

山田は積年の悲願として「日本での本格的なオペラの上演」と「常設オーケストラの設立」を掲げていた。しかし、山田一人ではさすがにどうしようもなかった。そこに現れたのが三菱財閥総帥であり、かなりの音楽愛好家でもあった岩崎小弥太であった。

山田と岩崎の接点は、東京音楽学校のチェロ教師ハインリヒ・ヴェルクマイスターであり、チェロの指導で親交のあった岩崎に、自分が見た中で一番才能がある山田を引き合わせた。山田は岩崎の知遇を得てドイツ留学を果たす一方、岩崎自身も音楽鑑賞のサークルとして「東京フィルハーモニー会」を自ら設立し、スポンサーとなった。最初の頃は軍楽隊や当時人気のあった三越少年音楽隊などが一時的にまとまっての「合同オーケストラ」の形をとっていたが、やがて小規模ながら常設のオーケストラを作り、1915年(大正4年)から帝国劇場で公演を開始した。

ところが、この頃最初の結婚をした山田が程なく別の女性(後にこの女性と再婚)に手を出し、それを聞いた岩崎が激怒。岩崎からの出資が止められた東京フィルハーモニー会は金銭的に困窮することになり、1916年(大正5年)2月にはあっけなく瓦解、山田の悲願は頓挫してしまった。
日本交響楽協会山田耕筰

東京フィルハーモニー会瓦解後、訪米やオペラ上演を経て再び常設オーケストラを作ることを夢見た山田は、「まず本場のオーケストラを呼んで世間の注目をオーケストラに集めよう」と、当時東洋一の実力を謳われていたハルビンの東支鉄道交響楽団を招くことを考えた。招聘話はかなりの部分まで進んだようだが、関東大震災であえなく挫折。翌1924年(大正13年)4月に日本交響楽協会をとりあえず設立したものの、山田は自身のパートナーを探していたし、楽譜などのインフラ整備はまだまだだった。そこに、ヨーロッパ留学から大量の楽譜とともに帰国したばかりの近衛秀麿が山田と面会。山田に助力する旨を伝えた。山田は近衛の参加と原善一郎というロシア語が堪能な敏腕マネージャーを手中にしたことにより、「悲願達成の機は熟した」と判断。大震災で断念した東支鉄道交響楽団の招聘に再び着手する。1925年(大正14年)4月に開催された「日露交歓交響管弦楽演奏会」は成功裏に終わり、それを助走として協会は1926年(大正15年)1月に最初の定期演奏会を開いた。6月まで12回の演奏会を開いたが、思わぬところから協会は崩壊する。

1926年9月8日、近衛が原のリストラを不服として突如協会退会を宣言。近衛を支持する楽員が44名に達して近衛派は新交響楽団(新響)を設立。一方の山田は事情聴取までされた上に黒柳守綱と「モンパルナス・トリオ」(松原与輔、岡村雅雄、郡司昌雄)しか手元に残らなかった(黒柳と岡村は、山田が溺愛していたがゆえに渾身の思いで引き止めたともいわれている)。分裂の原因は使途不明の金銭にまつわる経理の不正が理由とされる。後に関東軍の情報担当にもなった策士の原が一枚絡んでいるという説があるが、もともと山田自身が金銭にルーズな性格だったことも一因として挙げられており、100円(当時)の儲けを山田が50円、残りの楽員全員で50円(平均で1人1円ちょっとの計算となる)としていたことに楽員が不満で、そういう楽員の心境を近衛と原が巧みに掴んで分裂に至らしめたとも言われている。分裂の後、山田と近衛は1931年(昭和6年)ごろに和解し、黒柳らも新響に合流したが、その近衛と原が新響を追い出されるのは4年後であった。このときも原が原因だったという。

山田は金銭面の問題はさておき、指揮者としての実力や情熱は他の指揮者と比べても全く引けは取らなかったようであるが、実力や情熱を以ってしてもオーケストラの運営者として抱くには、どうしても乗り越えられないような壁があったのではないかという指摘もある。例えば井上道義は、「楽員は山田と近衛の性格を比較して、山田からカリスマ性を見出せなかったのではないか」と述べている。

山田は戦後に脳溢血で倒れて体が不自由(左半身不随)になっても、しばしば指揮をした[注釈 2]。しかし、そのほとんどは別の指揮者に実際の指揮を任せていたという(ベートーヴェン第九の初演指揮を、実質ミヒャエル・ウムラウフに委ねていたのと同じ感覚)。「黒船」を大阪で指揮した際も、実際の指揮を朝比奈隆が執っている。
エピソード

1930年12月、「耕作」を「耕筰」に改名すると発表した。戸籍上は長らく「耕作」のままであったが、1956年に再婚したのをきっかけに「耕筰」に改めている。


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