山田美妙
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山田 美妙
(やまだ びみょう)

誕生山田武太郎
1868年8月25日
日本武蔵国江戸府神田
死没 (1910-10-24) 1910年10月24日(42歳没)
日本東京府東京市本郷区
墓地染井霊園
職業小説家詩人評論家
言語日本語
国籍 日本
最終学歴大学予備門中退
ジャンル小説評論
文学活動写実主義硯友社
代表作『武蔵野』(1887年)
『蝴蝶』(1889年)
『いちご姫』(1892年)
『桃色絹』(1902年)
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山田 美妙(やまだ びみょう、1868年8月25日慶応4年7月8日) - 1910年明治43年)10月24日)は、日本小説家詩人評論家・辞書編纂者。言文一致体および新体詩運動の先駆者として知られる。二世曲亭主人、美妙斎、美妙子、樵耕蛙船、飛影などの号も用いた。

SF推理小説作家の加納一朗は孫。
生涯
生い立ち

本名は、山田武太郎。江戸の神田柳町(現在の東京都千代田区神田須田町二丁目)に旧南部藩士山田吉雄の長男として生まれる。3歳のとき父が地方に赴任し、母よし、その養母海保ますと神明前(浜松町)に、桶屋を家業として住む。ますは性格の厳しい人で自由に友人を作る事も遊ぶ事も許されなかった。ますの教育の方法もあり、後に人に反論できない論戦の苦手な青年となる。父は鳥取、長野などの警察部長を歴任し、その後武徳会に関係して京都に住み、1911年(明治44年)に没した。1874年に私立烏森学校入学し、この頃尾崎徳太郎尾崎紅葉)と知り合う。翌年公立巴学校(後の港区立鞆絵小学校)に転校する。12歳頃から詩について源蔵[誰?]から教えを受け、漢文については石川鴻斎から、和歌を叔父の山田吉就から学んだ。1879年(明治12年)東京府第二中学(1881年に府第一中と統合し東京府中学)入学し、ここで幼友達の紅葉と再会する。東京府中学を経て1884年(明治17年)大学予備門に入学する。
硯友社と新体詩・言文一致運動

予備門在学中の1885年(明治18年)に友人の尾崎紅葉、石橋思案丸岡九華らと文学結社である硯友社を結成し、雑誌『我楽多文庫』を編集・刊行、第1、2集に曲亭馬琴風の処女作「竪琴草紙」を発表する。1886年から同誌に連載した「嘲戒小説天狗」は、言文一致体で書かれた小説として先駆的なものであった。また1882年の『新体詩抄』以来の新体詩への意気込みで、縁山散史こと尾崎紅葉、延春亭主人こと丸岡九華とともに『新体詞選』を刊行する。同年第一高等中学校(大学予備門改称)を退学する。1887年(明治20年)に読売新聞に「武蔵野」を連載し、最初の言文一致体の新聞小説となる。同年婦人雑誌『以良都女』(成美社)を創刊する。1888年には短篇集『夏木立』を刊行、小説雑誌『都の花』(金港堂)を主宰、1890年まで務め、20歳にして坪内逍遥に匹敵する名声を得た。硯友社とは疎遠になり自然脱退となった。

徳富蘇峰らが1888年に組織した「文学会」にも参加し、1889年に『国民之友』誌で初めて小説を掲載した特別付録に、逍遥と並んで蘇峰の依頼を受けて、「蝴蝶」を執筆した。「蝴蝶」は、挿絵に初めて裸体が登場した作品で(渡辺省亭筆)、発売禁止となるなど物議をかもした[1]


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