やまだ みのる
山田 稔
生年月日 (1926-06-23) 1926年6月23日
没年月日 (1995-08-25) 1995年8月25日(69歳没)
出生地東京府東京市牛込区
国籍 日本
職業テレビドラマ演出家、映画監督
活動期間1965年 - 1988年
活動内容特撮テレビ映画
主な作品
テレビドラマ
『ジャイアントロボ』1967年 - 1968年
『柔道一直線』1969年 - 1971年
仮面ライダーシリーズ 1971年 - 1984年
スーパー戦隊シリーズ 1975年 - 1988年
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山田 稔(やまだ みのる、1926年6月23日[1] - 1995年8月25日[2])は日本のテレビドラマ・映画監督。東京府東京市牛込区(現在の東京都新宿区牛込)出身[2][1]。旧制第一高等学校理科甲類卒業[2][1]。 少年時代を満州国で過ごす[2][1]。終戦後、旧制第一高等学校へ進学[1]。 1947年、高校卒業後は出版社に勤務するが、その後東宝教育映画に入社し、助監督や制作進行などを務めた[2][1][3]。 その後、設立後間もない東映に契約社員として移籍する形で入社[2][1][3]。数々の東映映画に助監督として参加する。1965年にテレビドラマ『馬喰一代』で監督としてデビュー[1][3]。1960年代後半からは平山亨がプロデュースする特撮テレビ映画の監督を手がけるようになり、『悪魔くん』『ジャイアントロボ』『キャプテンウルトラ』などの作品に携わった[2][1][3]。 1971年に、『仮面ライダー』制作のために立ち上げられた東映生田スタジオにて、演出陣をまとめるため設立された東京映像企画代表取締役に就任[4][1]。同作品の中心監督の1人として活躍し、その後も仮面ライダーシリーズやスーパー戦隊シリーズなど多くのキャラクター作品を演出[1][3]。ベテラン監督として、長きに渡り第一線で活躍した。仮面ライダーシリーズでは第1作『仮面ライダー』からテレビスペシャル『10号誕生!仮面ライダー全員集合!!』までのすべてのシリーズに携わった唯一の監督である[3]。スーパー戦隊シリーズも第4作『電子戦隊デンジマン』を除く第1作『秘密戦隊ゴレンジャー』から第12作『超獣戦隊ライブマン』までの作品に参加した[2][3]。演出作品数は、東映ヒーロー作品だけで300本以上である[2][1]。 しかし還暦を迎えた頃喉に癌が見つかり、当時ローテーションに入っていた『超新星フラッシュマン』から離脱を余儀なくされた。その後1年間のブランクを経て監督復帰を果たすが、1988年に『超獣戦隊ライブマン』第11話「頭脳獣を噛んだ男」を最後に自ら引退を決意し、後進に道を譲った。引退の理由について、山田の長女によると癌手術から復帰したものの、体力が続かずスタッフに介抱されることが多くなったため、周囲に迷惑を掛けたくないとして引退を決めたと証言している[2]。 1995年8月25日、喉頭癌のため死去[2]。69歳没。
来歴
作風
山田はせっかちな性格であったとされ、そのことは作品にも現れている。
『仮面ライダー』で仮面ライダーに倒されたショッカー怪人が最後に爆発するという描写を用いたのは山田が最初であった[2][1]。それまでの回では、ショッカー怪人は倒された後に泡になって溶けるなどの描写がなされていたが、山田はテンポが悪いと感じ爆発するというアイデアを出した[2]。「必殺技を受けた怪人が爆発する」というパターンは仮面ライダーシリーズのみならず東映特撮作品の多くで踏襲された[2]。
映画『仮面ライダー対ショッカー』では、再生怪人軍団が集結するシーンで山田は速めのパンを指示していた[2]。