山田町_(鹿児島市)
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山田町
町丁
指宿スカイライン山田インターチェンジ
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯31度33分59秒 東経130度30分31秒 / 北緯31.56625度 東経130.5085度 / 31.56625; 130.5085座標: 北緯31度33分59秒 東経130度30分31秒 / 北緯31.56625度 東経130.5085度 / 31.56625; 130.5085
日本
都道府県 鹿児島県
市町村 鹿児島市
地域谷山地域
地区谷山北部地区

人口情報(2020年(令和2年)4月1日現在)
 人口5,399 人
 世帯数2,245 世帯
郵便番号891-0104
市外局番099
ナンバープレート鹿児島
運輸局住所コード[2]46500-0798
ウィキポータル 日本の町・字
ウィキポータル 鹿児島県
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山田町(やまだちょう[3])は、鹿児島県鹿児島市[4]。旧薩摩国谿山郡谷山郷山田村、谿山郡谷山村大字山田、鹿児島郡谷山町大字山田、谷山市山田町。郵便番号は891-0104[5]。人口は5,399人、世帯数は2,245世帯(2020年4月1日現在)[6]
地理

鹿児島市の中部、永田川の中流域に位置している。町域の北方には星ヶ峯、南方には中山及び中山町、西方には皇徳寺台五ケ別府町、東方には桜ケ丘がそれぞれ接している。周辺には新興住宅地が広がっているが、町域内の多くは水田の広がる農村地帯となっている。

町域の中央部を指宿スカイライン鹿児島県道17号指宿鹿児島インター線)が南北に通っており、町域内には鹿児島IC方面のハーフインターとなっている山田ICと隣接して山田料金所が所在している。

また、北部を鹿児島県道35号永吉入佐鹿児島線が東西に通っており、山田交差点で鹿児島県道210号小山田谷山線と交差し、県道210号は谷山方面に南方向に通っている。山田交差点から春山町の春山交差点までは県道35号と重複し、小山田町方面へ接続している。
河川

永田川(二級河川)

山之田川


歴史
山田の成立と中世皇徳寺の絵図(三国名勝図会

山田という地名は鎌倉時代より見え、薩摩国谿山郡のうちであった。1276年建治2年)の山田忠真譲状案には「たにやまのこほりのうちやまたのむらならひにきたのへふ」とあり、次男の山田宗久に当村の地頭職を譲渡されたとある[7][8]。同時に宇宿郷(現在の宇宿)が三男山田直久に譲渡された[8]

南北朝時代征西将軍宮懐良親王によって皇立寺が創建され[9]、懐良親王が没したのちに領主の谷山忠高は無外円照に帰依して円照を開山として皇徳寺を創建した[9]。江戸時代になると寺領100石を有しており、七堂伽藍を備えた大寺となった[9]。江戸時代の薩摩藩地誌である三国名勝図会によれば皇徳寺について以下のように記している[10]。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}

永谷山皇徳寺 山田村にあり、能州總持寺の末にして、曹洞宗なり、本尊釋迦如來、開山無外圓照和尚、開基の施主佛心大禅伯、由來記を按ずるに、菊池肥後守武光、後醍醐帝の皇子世良親王を肥後國に請下し、征西将軍の宮と仰ぎ奉り、武威を西海の諸州に振はむとす、正慶年中、親王本邦に來り給ひ、見寄原要害の地なるを以て、行館を搆へておはしけり、武光も見寄原の近地に壘壁を營み、親王を守護せり、さて親王の命によりて、見寄原のほとりにして、諏方社を建立し、又梵刹を創建して、皇立寺と名付け、國土の静謐を祈る、親王薨じ給ひて、翌年の春、光巖帝齋藤若狭守藤原實直をして、宣旨を下し給ひ、親王の位牌を皇立寺に安置し、菩提寺に定めらる、其後至徳年中に至り無外和尚親王の遺跡を慕ふて來り、此地を相して、梵刹を起んと欲す、時に谷山の郡司、右馬助平忠高入道、佛心無外和尚に歸依し、皇立寺をこゝに移し、七堂の伽藍を再興して、號を皇徳寺と改め、無外和尚を請待し、開山とすといふ、當寺に、古雲板あり、其背に銘を彫て云、薩州谷山郡永谷山常住、正平廿一年、丙牛、姑洗望日、大工浄法と、正平は南朝の年號にして、廿一年は、北朝の貞治五年に當る、由來記に、再興といへる、至徳の元年よりは、十八九年前なり、然れば永谷山の號は、此時既にあり、慶長中、一唯世子の霊牌を安置し、田地を寄附して、世子の菩提寺となし給ふ、寺領禄百石、—三国名勝図会

また、室町時代のものであるとされる、村内の田畑を寺社に寄進していたことに関する史料が多く現存しており、村内にあった皇徳寺や、現在の鹿児島市立鹿児島玉龍中学校・高等学校付近にあった福昌寺などへの寄進があったとされる[8]
近世の山田村

江戸時代には薩摩国谿山郡谷山郷(外城)のうちであった[4]村高は「天保郷帳」では1,407石余[4]、「郡村高辻帳」では1,407石余[7]、「三州御治世要覧」では1,545石余[7]、「旧高旧領取調帳」では1,577石余であった[4]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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