山田洋次
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やまだ ようじ
山田 洋次
キネマ旬報』1962年4月上旬春の特別号より
別名義山田よしお
生年月日 (1931-09-13) 1931年9月13日(92歳)
出生地 日本大阪府豊中市
職業映画監督脚本家演出家
ジャンル映画テレビドラマ舞台
活動期間1954年 -
主な作品
映画
男はつらいよ』シリーズ
幸福の黄色いハンカチ
遙かなる山の呼び声
息子
学校』シリーズ
釣りバカ日誌』シリーズ
たそがれ清兵衛
隠し剣 鬼の爪
武士の一分
家族はつらいよ』シリーズ
キネマの神様

 受賞
ベルリン国際映画祭
功労賞
2010年
東京国際映画祭
特別賞
2015年
日本アカデミー賞
最優秀監督賞
1978年幸福の黄色いハンカチ
1994年学校
2003年たそがれ清兵衛
最優秀脚本賞
1978年『幸福の黄色いハンカチ』
1981年遥かなる山の呼び声
1994年『学校』
2003年『たそがれ清兵衛』
ブルーリボン賞


監督賞

1967年運が良けりゃ

1978年幸福の黄色いハンカチ

その他の賞
モントリオール世界映画祭
審査員特別賞
1980年遥かなる山の呼び声山路ふみ子映画賞
1986年キネマの天地
1993年学校
2003年たそがれ清兵衛紫綬褒章
1996年藤本賞
1998年学校』シリーズ
2002年たそがれ清兵衛上海国際映画祭
最優秀監督賞
1999年学校III文化功労者
2004年文化勲章
2012年

備考
第17回東京国際映画祭 審査委員長(2004年
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山田 洋次(やまだ ようじ、1931年昭和6年〉9月13日 - )は、日本映画監督脚本家演出家

大阪府豊中市出身。東京大学法学部卒業。川島雄三野村芳太郎の助監督を経て1961年に『二階の他人』でデビュー。『男はつらいよ』シリーズなど人情劇を発表し、現役でキネマ旬報ベストテンに最多入賞した監督。紫綬褒章1996年)、文化功労者2004年)、文化勲章2012年)受章。日本芸術院会員。財団法人いわさきちひろ記念事業団理事長。関西大学大学院文学研究科および立命館大学映像学部客員教授文化学院の特別講師。日本映画監督協会会員。

妻は「平塚らいてうの記録映画を上映する会」副会長を務めた山田よし恵(1932年5月23日 - 2008年11月8日)。次女はTBSプロデューサーの山田亜樹[注 1]
来歴

1931年大阪府豊中市に生まれる。満鉄のエンジニアだった父親の勤務のため、2歳で満州に渡り少年期を過ごした[1]。小学校1年?3年生のときに落語に熱中し、あるときジフテリアを患い明日の命も危ぶまれた際、憐れんだ父親から何でも好きな物を買ってもらえることになり、古本屋の落語全集を買ってもらったという。

東京都大田区池雪小学校に通う。戦中の1943年、東京都立第八中学校(現東京都立小山台高等学校)に入学するが、同年5月、空襲を避け、満洲国の旧制大連第一中学校(のち廃校)へ移る。1947年大連から一家で日本に引き揚げ、15歳から18歳までを山口県宇部市の伯母の持ち家で過ごした。流れ者や社会の逸脱者を多く描くのは、山田自身の引き揚げ体験が強く影響している[1]

1947年、旧制宇部中学校(山口県立宇部高等学校)3年に編入し、1948年、四修の飛び級で旧制山口高等学校(現山口大学)に入学するが、在学中に学制改革を経験する[2]。1949年、学制改革に伴い旧制高校を1年で卒業(三高の小松左京や新潟高の野坂昭如と同様のいわゆる一年修了組)[3]。1950年、東京大学法学部に入学。この頃、両親が離婚する。怠学による出席日数不足で中退するところだったが、1954年に卒業する。

松竹に補欠入社し、野村芳太郎作品の脚本家・助監督を務めた後[4]。1961年、『二階の他人』で監督としてデビューした[5]大島渚篠田正浩吉田喜重といった気鋭の新人が松竹ヌーヴェルヴァーグとして活躍していた時代にあって、山田は地味な存在であった。


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