その他の「やまだあきら」の同名の人物については「Wikipedia:索引 やまた#やまたあ」をご覧ください。
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やノートページでの議論にご協力ください。山田 朗(やまだ あきら、1956年12月15日 - )は、日本の歴史学者。専攻は、日本近代史・日本軍事史・天皇制論。学位は、博士(史学)(東京都立大学)。明治大学文学部教授、歴史教育者協議会委員長[1]。 大阪府豊中市生まれ。1979年、愛知教育大学教育学部卒業。1982年、東京都立大学大学院人文科学研究科史学専攻修士課程修了。1985年、同大学院博士課程単位取得退学。同大学人文学部助手を経て、1994年、明治大学文学部史学地理学科助教授。1999年、同学部教授。2010年、明治大学平和教育登戸研究所資料館初代館長に就任。 佐々木隆爾に師事。1999年、「昭和天皇による戦争指導の軍事史的研究」で東京都立大学博士(史学)[2]。『大元帥・昭和天皇』で第20回野呂栄太郎賞を受賞。 自衛隊再編(縮小のうえ、国境警備隊と国家レスキュー隊に改編)論者とされ、時事的な政治・外交について言及した著作や映画評論もある。 満州事変・日中戦争・太平洋戦争に関する上奏文などの史料検討を通じて、戦時下の昭和天皇が、一般に論じられてきたような「軍事に疎く、戦争を忌避する平和主義者」といった性格を持つ人物ではなく、十分な軍事的知識・情報を有する存在であり、様々な戦争の局面で「御下問」「御言葉」によって積極的に戦争指導に関与していた「政戦略の統合者」「穏健な膨張主義者」であったとすると主張している。しかし、昭和天皇が軍部にありがちな「精神主義」「冒険主義」を嫌悪していたとも述べている。 2000年の女性国際戦犯法廷では、「昭和天皇の戦争関与と<戦争責任>」と題して「国体」思想が戦前には兵士の強姦や虐殺を扇動し、現在でも歴史修正主義として生き延びていることを論じた[3]。 伊藤之雄によると、山田の著書である『昭和天皇の軍事思想と戦略』において、1941年10月13日の『木戸幸一日記』を引用して天皇の開戦の覚悟を示す際に天皇の木戸への言葉の中で、開戦に躊躇している部分は(中略)として引用部分からすべて削除しているという[4]。それに対し、山田朗『昭和天皇の軍事思想と戦略』は、天皇は1941年10月の中旬にかなり開戦に傾き、12月1日の御前会議で開戦が最終的に決定されたと(175?183頁)、ハル・ノートの影響に言及せず、天皇の開戦への意思を強調している。さらに、10月13日の『木戸幸一日記』を引用して、天皇の開戦への『覚悟』を示す際に、天皇の木戸内大臣への言葉の中で、開戦に躊躇していることを表す以下の部分は、『中略』として引用部分からすべて削除している。『其の場合、今迄の詔書について見るに、聯盟脱退の際にも文武恪循(文武が謹んで寄り添う)と世界平和と云ふことに就て述べたのであるが、国民はどうも此点を等閑視して居る様に思はれる。又、日独伊三国同盟の際の詔書に就ても平和の為めと云ふことが忘れられ、如何にも英米に対抗するかの如く国民が考へて居るのは誠に面白くないと思ふ』このように、天皇は国民が『武』(開戦)の方に傾いていくことを危惧していた[4]。
来歴
人物
著作
単著
『昭和天皇の戦争指導』昭和出版、1990年
『大元帥 昭和天皇』新日本出版社、1994年、ちくま学芸文庫、2020年
『軍備拡張の近代史――日本軍の膨張と崩壊』吉川弘文館、1997年
『歴史修正主義の克服――ゆがめられた<戦争論>を問う』高文研、2001年
『昭和天皇の軍事思想と戦略』校倉書房、2002年
『護憲派のための軍事入門』花伝社、2005年
『世界史の中の日露戦争 戦争の日本史20』吉川弘文館、2009年
『これだけは知っておきたい日露戦争の真実―日本陸海軍の〈成功〉と〈失敗〉』高文研、2010年
『日本は過去とどう向き合ってきたか』高文研、2013年
『近代日本軍事力の研究』校倉書房、2015年
『兵士たちの戦場―体験と記憶の歴史化』岩波書店、2015年
『昭和天皇の戦争』岩波書店、2017年
『帝銀事件と日本の秘密戦』新日本出版社、2020年
共著
(纐纈厚)『遅すぎた聖断――昭和天皇の戦争指導と戦争責任』(昭和出版、1991年)
(藤原彰・粟屋憲太郎・吉田裕)『徹底検証・昭和天皇「独白録」』(大月書店、1991年)
(小田部雄次・林博史)『キーワード日本の戦争犯罪』(雄山閣、1995年)
(大日方純夫・山科三郎・石山久男)『君たちは戦争で死ねるか?小林よしのり『戦争論』批判』(大月書店、1999年)
(宮地正人監修・大日方純夫・吉田裕・山田敬男)『日本近現代史を読む』(新日本出版社、2010年)
(渡辺賢二・齋藤一晴
(小森陽一・俵義文・石川康宏・内海愛子))『軍事立国への野望』(かもがわ出版、2015年)
編著
『戦争II――近代戦争の兵器と思想動員』(青木書店、2006年)
『岩波ブックレット 歴史教育と歴史研究をつなぐ』(岩波書店、2007年)
『歴史認識問題の原点・東京裁判』(学習の友社、2008年)
共編著
(佐々木隆爾・木畑洋一・高嶋伸欣・深澤安博
(佐々木隆爾)『新視点日本の歴史 第6巻 近代編』(新人物往来社、1993年)
(五十嵐仁・金子勝・北河賢三・小林英夫・牧原憲夫)『日本20世紀館』(小学館、1999年)
(海野福寿・渡辺賢二)『陸軍登戸研究所――隠蔽された謀略秘密兵器開発』(青木書店、2003年)
(大日方純夫)『講座戦争と現代3巻 近代日本の戦争をどう見るか』(大月書店、2004年)
(小田部雄次)『展望日本歴史 第22巻 近代の戦争と外交』(東京堂出版、2004年)
(明治大学平和教育登戸研究所資料館)『陸軍登戸研究所〈秘密戦〉の世界』(明治大学出版会、2012年)