山田方谷
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この項目は画像提供依頼に出されており、
方谷園(高梁市、新見市)

方谷橋

方谷林公園

山田方谷の銅像、記念碑、記念館の画像提供が求められています。(2022年6月)

 凡例山田 方谷

時代江戸時代後期 - 明治時代前期
生誕文化2年2月21日1805年3月21日
死没明治10年(1877年6月26日
別名阿?(幼名)、球()、琳卿()、安五郎(通称
戒名方谷院深文純徳居士
墓所方谷園(岡山県高梁市中井町西方)
官位正五位
主君板倉勝職勝静
備中松山藩
氏族山田氏清和源氏満政流
父母父:山田五郎吉、母:西方梶
#私生活を参照
#私生活を参照
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山田 方谷(やまだ ほうこく)は、幕末期の儒家陽明学者、備中松山藩士。

方谷はは球(きゅう)、は琳卿(りんけい)、通称は安五郎。備中聖人、小蕃山と称された[1]
生涯
生い立ち - 青年期

文化2年2月21日1805年3月21日)、当時備中松山藩領だった備中国阿賀郡西方(現・岡山県高梁市中井町西方)で山田五郎吉・梶(西方氏)夫妻の間に長男として生まれる。幼名は阿?(ありん)。

山田家は元は源氏を称する(後述)郷士の家であったが、方谷の曾祖父・宗左衛門が長男を勝手に出家させた寺の住職を殺害して自害するという事件を起こしたため[注釈 1]、財産没収の上で所払いとされた祖父・善太郎は新見藩領土橋(現・新見市土橋)に寄寓し、20年ほど後に許されて西方の地に戻って来た[3]。方谷が生まれたころは農業と菜種油の製造・販売を家業として生計をたてていた。

お家再興を願う両親は方谷に学問で世に出てもらおうと考え、彼が乳飲み子の頃から字を教え始めた。方谷は3歳で漢字を覚えたといわれ、生家近くの木山神社には4歳のときに奉納したという扁額が残っている[4]

方谷は5歳になると実家から20km離れた新見藩領にある親戚の寺に預けられ、藩儒・丸川松隠の回陽塾で学び始める。ここでも神童と評判を呼び、6歳のときに藩主・関長輝の御前で書を披露した、9歳のときには学問に励む目的を問われ「治国平天下」と答えたなどの逸話が残っている[5]

文政元年(1818年)8月27日、母・梶が死去し[6]、方谷は父・五郎吉から実家に戻って家業を手伝うよう命じられるが、丸川松隠が父を説得してくれたため学業を続けることができた[7]。しかし翌年、五郎吉も母の後を追うように死去してしまい、方谷は止む無く松隠の許を去り、実家に戻って家業を継いだ[8]

家を継いだ方谷は家業の油商の仕事に励み、数年後にはその誠実な取引姿勢から正直者との評判を得るようになっていた[9]。また家業の傍ら独学で学問も続けていたが、当時の丸川松隠への手紙の中では「家業に追われて学問をする時間が少なく、また仕事では俗物や平凡な人間とばかり付き合っています。これでは自分も平凡な人間に堕してしまい、これまでの学問が全て無駄になってしまいそうです」と現状への不満と焦燥を吐露している[10]。方谷はこの時期のことをあまり語ってはいないが、三島中洲は『方谷年譜』の中で「この時期の経験が、藩政改革の際に汚職役人やそれと癒着した商人・庄屋と対峙する上で役立ったのではないか」と分析している[11]

文政8年(1825年)末、家業と学問に励む方谷の話を耳にした備中松山藩主・板倉勝職から奨学金として二人扶持を与えられ、藩の学問所への出入りを許された[12]。親族の間でも、お家再興を果たすためには方谷を学問に専念させるべきでは、との声が出るようになった[13]。文政10年(1823年)と同12年(1825年)に方谷は家業を家族に任せて京都へと遊学し、丸川松隠の知人である寺島白鹿[注釈 2]の門下生となる[13]一方で藩主の薦めで鈴木撫泉[注釈 3]にも学んだ。この時の撫泉門下に終生の友となった春日潜庵がいた[15][注釈 4]

2度目の京都遊学から帰郷して3か月後の文政12年(1825年)12月23日、方谷は板倉勝職から苗字帯刀を許され、12月28日には士分に取り立てられて家格を中小姓格とされ八人扶持を与えられた。また藩校・有終館の会頭(教授)に任じられ[17]、両親の悲願であったお家再興を果たした。

文政13年(1826年)6月、方谷は松山城下の本丁(現・高梁市内山下)に屋敷を与えられた[18]天保元年(1830年)12月、藩に願い出ていた3度目の京都遊学の許可が下りたため有終館会頭を辞職し、来春にも出発する予定で準備を進めていたが、天保2年(1831年)2月10日、方谷の屋敷から出火し有終館も焼失[注釈 5]する火事が発生し、責任を問われた方谷は城下の松連寺において1か月間謹慎した[20]
陽明学との出会い

天保2年(1831年)7月、27歳の方谷は藩から2年間の京都遊学の許しを得て、三たび寺島白鹿の塾に入門した[21]

方谷は幼少期から朱子学を学んでいたが、学びが深まるにつれて朱子学に対する懐疑と不信が高まっていた[22]。天保4年(1833年)秋[23]王陽明の『伝習録』を熟読し、本格的に陽明学の思想に触れた[24][25]。同年12月、さらに陽明学を学ぶべく、藩からさらに3年間の江戸遊学を許され京を離れる[26]


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