山田徳兵衛_(吉徳第10代当主)
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山田 徳兵衛(やまだ とくべえ、1896年5月14日 - 1983年12月21日)は、日本の実業家、人形問屋吉徳の第10代当主、人形研究家[1][2]、人形師[3]
経歴

東京に生まれ、出生名は庫吉であった[1]。中央商業学校(中央学院大学中央高等学校の前身)に学ぶ[1][4][5]

1923年関東大震災で店舗を失った吉徳の再建にあたり、人形専門店への転換を進めた[6]吉徳の経営者となると、東京独自の雛人形の形態を生み出し[4]、雛人形のセット販売などで業績を伸ばした[1]

1927年青い目の人形への「答礼人形」として58体の日本人形を製作してアメリカ合衆国へ贈る取り組みが行なわれた際にはこれに深く関わり、人形の企画製作にあたった[1][6][7]

1930年には、人形芸術運動に取り組むため、石井柏亭笹川臨風西沢笛畝らとともに童宝美術院を結成し、同人となる[6]。同年には、日本人形研究会を設立し、初代会長となった[6]

1938年には、日独伊防共協定の成立を記念して大日本連合女子青年団と大日本連合婦人会が、アドルフ・ヒトラー総統とベニート・ムッソリーニ首相への贈呈を企画した「やまと人形」の製作にもあった[8]

戦前から、戦後にかけて、長く業界を代表する人物として活動し[9]、日本人形研究会初代会長[6]、日本玩具および人形連盟会長[4]、日本人形協会会長[10]、日本ひな人形協会名誉会長[2]、浅草法人会会長[11]などを歴任した。

1982年には、日本経済新聞に「私の履歴書」が連載された[6]

俳句をたしなみ[4]、土偶と号した[1]。色紙に揮毫を求められると、「一生童心」と書いた[10]
おもな著書

日本人形史、
富山房、1933年(講談社学術文庫:1984年)

羽子板、芸艸堂、1937年(再刊:1994年)

現代のおもちゃ、小學館、1943年

人形芸術、創元社(創元選書)、1953年

人形のいろいろ、朋文堂(旅窓新書)、1955年

新編日本人形史、角川書店、1961年

人形百話、未来社、1963年

日本の人形、保育社カラーブックス)、1964年

日本の郷土玩具、鹿島研究所、1967年

日本のおもちゃ、芳賀書店、1968年

人形の世界、フレーベル館(フレーベル新書)、1976年

このほか、俳句集『土偶句集』が竹頭社などから出版されている(『土偶句集4』は東京美術刊)。
脚注^ a b c d e f デジタル版 日本人名大辞典+Plus『山田徳兵衛』 - コトバンク
^ a b “山田徳兵衛 訃報”. 朝日新聞・東京朝刊: p. 23. (1983年12月23日)  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
^ “山本提督へお人形さん 愛嬢の学友達が心篭めた贈物”. 朝日新聞・東京朝刊: p. 3. (1943年5月7日)  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
^ a b c d “山田徳兵衛 人寸描”. 朝日新聞・東京朝刊: p. 3. (1956年4月21日)  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
^ kotobank/デジタル版 日本人名大辞典+Plusでは、中退とされているが、朝日新聞1956年4月21日付記事のように卒業とする記述もある。
^ a b c d e f “ ⇒吉徳の歴史”. 吉徳. 2015年4月26日閲覧。
^ “日米親善人形 (2) 答礼に58体手作り 1万体超す「青い目」 昭和にんげん史”. 朝日新聞・東京夕刊: p. 3. (1988年8月23日)  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
^ “ニュース縮刷版/独伊両雄へ人形”. 朝日新聞・東京朝刊: p. 11. (1938年1月21日)  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
^ “お人形さん萬歳 權威ある研究會の誕生”. 朝日新聞・東京朝刊: p. 9. (1933年2月25日). "...人形商の總元締格山田徳兵衛氏..."  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧


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