山田寺
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この項目では、奈良県桜井市の古代寺院について説明しています。岐阜県各務原市の寺については「山田寺 (各務原市)」をご覧ください。

山田寺

所在地奈良県桜井市山田1258
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度29分2秒 東経135度49分48秒 / 北緯34.48389度 東経135.83000度 / 34.48389; 135.83000座標: 北緯34度29分2秒 東経135度49分48秒 / 北緯34.48389度 東経135.83000度 / 34.48389; 135.83000
山号大化山
宗派法相宗
本尊十一面観音
創建年7世紀末
開基蘇我倉山田石川麻呂
中興年1892年明治25年)
文化財山田寺跡(国の特別史跡
法人番号5150005004068

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山田寺(やまだでら)は、奈良県桜井市山田にある法相宗寺院山号は大化山。本尊十一面観音。一般的には、かつてここにあった古代寺院を指す。蘇我倉山田石川麻呂の発願により7世紀半ばに建て始められ、石川麻呂の自害(649年)の後に完成した。法号を浄土寺または華厳寺と称する。中世以降は衰微して明治時代初期の廃仏毀釈の際に廃寺となった。その後、1892年(明治25年)に小寺院として再興されている。

1921年大正10年)3月3日史跡に指定され、1952年昭和27年)3月29日「山田寺跡」として国の特別史跡に指定されている。1982年(昭和57年)12月4日に追加指定されている。
歴史
開基・蘇我倉山田石川麻呂

山田寺の開基である蘇我倉山田石川麻呂蘇我氏の一族に属し、蘇我馬子は祖父、蘇我蝦夷は伯父、蘇我入鹿は従兄弟にあたる。石川麻呂は蘇我氏の一族でありながら蝦夷、入鹿らの蘇我氏本宗家とは敵対しており、中大兄皇子(葛城皇子、後の天智天皇)、中臣鎌足らの反蘇我勢力と共謀して、皇極天皇4年(645年)に起きた乙巳の変(蘇我入鹿暗殺事件)に加担した。乙巳の変後に発足した新政権では、石川麻呂は右大臣に任ぜられた[1]

日本書紀』によれば、乙巳の変の4年後の大化5年(649年)、石川麻呂の異母弟・蘇我日向は、石川麻呂に謀反の志があると中大兄皇子に密告した。そして、石川麻呂のもとへは孝徳天皇の軍勢が差し向けられた。石川麻呂は抗戦せず、一族とともに山田寺仏殿前で自害した。石川麻呂は無実であり冤罪であったとされるが、事件の真相については諸説ある[1]
創建の経緯創建時の山田寺の伽藍の模型。
橿原市藤原京資料室蔵藤原京1/1000模型の一部。

山田寺の創建については『上宮聖徳法王帝説』裏書に詳しく書かれており、山田寺について語る際には必ずと言ってよいほどこの史料が引用される。同裏書によれば、舒明天皇13年(641年)に「浄土寺(山田寺)の造営を誓願」し「始平地」とあり、この年に整地工事を始めて、2年後の皇極天皇2年(643年)には金堂の建立が始まる。大化4年(648年)には「始僧住」(僧が住み始める)とあることから、この頃には伽藍全体の整備は未完成であったが、一応寺院としての体裁は整っていたと見られ、発掘調査によれば金堂とそれを囲う回廊と中門、さらに南側には掘立柱で棟門形式の南門があったと考えられる[2][3]

大化5年(649年)には上述の石川麻呂自害事件があり、山田寺の造営は一時中断する[2]
造営の再開山田寺仏頭(国宝。興福寺蔵)

14年後の天智天皇2年(663年)には未建立であった塔の建設工事が始められるが、再度の中断をはさんで天武天皇2年(673年)に心柱を建て、天武天皇5年(676年)に「相輪(仏塔の最上部の柱状の部分)を上げる」とあることから、この年に塔が完成したものと思われる。塔の造営開始から心柱が建つまでに10年も要しているのは、白村江の戦い壬申の乱などの混乱で工事が頓挫したためと考えられる[4]

天武天皇7年(678年)には「丈六仏像[注釈 1]を鋳造」とあり、同天皇14年(685年)3月25日(石川麻呂の命日)にはその丈六仏像が開眼されている。この仏像は講堂に安置された薬師如来と考えられ、現在は頭部のみが奈良市・興福寺に現存し、国宝に指定されている[5][6]

以上の創建経緯は、発掘調査の結果や出土した古瓦の編年からおおむね事実と認められており、7世紀末までに全体の伽藍が完成したと考えられる。なお、『日本書紀』には上述の丈六仏開眼の年である天武天皇14年(685年)、同天皇が浄土寺(山田寺の法号)に行幸したとの記事がある。石川麻呂の死後も山田寺の造営が続けられた背景には、石川麻呂の孫で天武天皇の皇后の菟野皇女(のちの持統天皇)の後ろ盾があったと推定されており、以降は官寺に次ぐ扱いを受けている[5][4]
平安時代まで

奈良時代から平安時代の記録は多くないが、弘仁14年(823年))に護命が山田寺に隠棲したこと(『続日本後紀』)と、治安3年(1023年)に藤原道長が山田寺を訪れて、堂内の「奇偉荘厳は言葉で言い尽くせないほどだ」と感嘆した(『扶桑略記』)ことから、少なくとも11世紀前半までは山田寺の伽藍は健在であったことがわかる[7]。しかし発掘調査によれば、道長来訪から程なくして土砂崩れにより伽藍東側の回廊や宝蔵が埋没したと思われる[8]

『多武峰略記』に引く古記によれば、嘉保3年(1096年)に「多武峰寺(現在の談山神社)の鐘が小さいので山田寺の鐘と交換した」との記述があり、この頃までに多武峰寺の末寺になっていたと考えられる[7]
興福寺の乱入

玉葉』(九条兼実の日記)によれば、文治3年(1187年)に興福寺の僧兵が山田寺に押し入り、講堂本尊の薬師三尊像を強奪して興福寺東金堂の本尊に据えたと記録されている。発掘調査では金堂・塔・講堂が12世紀末に焼失した事が確認されており、この事件の際に焼き討ちされたと考えられている[9]。また『興福寺略年代記』の承久2年(1220年)の記述に「山田寺鐘西金堂引之」とあるのも、この時に収奪された鐘である可能性を指摘されている[7]

当時の興福寺は平重衡の兵火(治承4年・1180年)で炎上後、再興の途上であった。この薬師如来像は応永18年(1411年)の東金堂の火災の際に焼け落ち、かろうじて焼け残った頭部だけが、その後新しく造られた本尊像の台座内に格納されていた。この仏頭は昭和12年(1937年)に再発見されるまでその存在は知られていなかった[9]


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