山田宗?
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山田 宗?(やまだ そうへん、寛永4年(1627年) - 宝永5年4月2日1708年5月21日))は、江戸時代前期の茶人宗?流茶道を興した。茶号は四方庵・不審庵・今日庵。
生涯.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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寛永4年(1627年)、東本願寺末寺である京都上京二本松長徳寺の住職・明覚(長徳寺四世)の子として長徳寺に生まれた。母は山田監物(松江藩主・堀尾忠晴重臣)の娘。僧名は周学(しゅうがく)。父から寺の住職職を継いだが、還俗して茶道を志すようになり、小堀遠州に入門。さらに正保元年(1644年)、18歳のときに千宗旦に弟子入りする。承保元年(1652年)、宗旦の皆伝を受け、京都郊外の鳴滝村三宝寺に茶室を建てた。このお祝いに宗旦から千利休の伝来の品である四方釜を譲られた。また大徳寺の翠巌和尚からも「四方庵」の茶号を贈られている。

明暦元年(1655年)、千宗旦の推挙で三河国吉田藩愛知県豊橋市)主・小笠原忠知に茶道をもって30石5人扶持(100石格)で仕えるようになった。また長徳寺を離れるにあたって、母方の姓・山田をとって「山田宗?家定」と改名している。父の明覚も山田道玄と改名した。この時すでに晩年であった千宗旦には利休以来の庵号「不審庵」及び宗旦の庵号「今日庵」の使用を許されている[1]。吉田で与えられた屋敷は今は豊橋公園(豊橋市今橋町)の一角となっている(現在、石碑が有る)。臨済寺(同市東田町)で参禅得道し、栽松庵を設けた。また、飯村(いむれ、同市飯村町)や小坂井(こざかい、豊川市小坂井町)に大名接待の茶屋を設立した。以降40年以上にわたり小笠原家に仕える。

元禄10年(1697年)、吉田小笠原家の職を二世宗引へ譲って吉田を去り、東海道江戸に下り、本所に居を構える。宗?流茶道を興した。赤穂事件の際には、本所に屋敷替えになった高家吉良義央(義央も千宗旦の弟子の一人)から、しばしば吉良邸の茶会に招かれて出席している。

宝永5年4月2日1708年5月21日)に江戸で死去。享年82。浅草本願寺中の願竜寺に葬られたが、遺言により墓石は建てていない。石灯竜と紅梅を残すも、前者は享保の大火で消失、後者は関東大震災で消失した。法名は不審庵周学宗?居士。著書に『茶道便蒙抄』『茶道要録』などがある。

唯一の遺構とされる茶室「淇篆庵(きろくあん)」が愛知県岡崎市明願寺にある[2][3]
遺品

小林平八郎宛書簡 - 山田宗?と吉良家・小林央通との書簡集。宗?の筆による発信の控えが宗?流山田家に残る[4]

茶器名物「山桜」 - 小林央通から宗?に贈られた茶入。家宝として継承され、現在は十一世宗?が所持。

創作・脚色

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忠臣蔵では、脇屋新兵衛と変名した赤穂浪士大高忠雄が宗?に弟子入りし、宗?から「12月14日に吉良邸で茶会」という情報を聞きだして、討ち入り日を決定した、とされる巷談が残る。山田宗?は脇屋新兵衛の正体を知りながら、赤穂浪士達の無念を思いやってわざと吉良邸茶会の日を教えた、という設定になっている。

また、討ち入りに吉良邸に泊った宗?も居合わせてしまい、茶器の名物「桂籠(花入)」[5]を抱えて逃げ隠れる際に大高に襲撃され、その時の刀傷(隠れている処を突かれた為、槍傷だとする場合あり)が茶器に残った、などとする脚色もある。このストーリーでは大高は「桂籠」を奪い、潮田高教に持たせ泉岳寺に運び去っている。

しかし史実では、山田宗?に大高が入門したという事実も、宗?が茶会の日程を教えた史料も存在しない。宗?は四十年の間、茶道指南として小笠原家に仕えていたが、当日の正客は吉良と昵懇の仲の小笠原長重であった。一歩間違えば主君の命も危なかったわけであり、現実的ではない。事件後、小笠原は赤穂義士の全員斬首を主張している。宮澤誠一は、「宗?による日程の漏洩説は大高に活躍の場を与えるための俗説」としてこれを退けている[6]
妻子

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妻は生駒氏。三男一女であり、長男・宗倫は早世したが、次男・山田宗屋と三男・生駒権平宗俊は小笠原家に近習として仕えた。長女は吉田石塚大聖寺住職・清山に嫁ぎ、一男・永守を産んだとある。
登場する作品

赤穂浪士1964年NHK大河ドラマ 演:柳永二郎

大忠臣蔵 (1971年NET/三船プロ 演: 岡田英次)

赤穂城断絶1978年、東映 演: 大滝秀治

元禄繚乱1999年、NHK大河ドラマ 演:松村達雄)

脚注^ 茶の湯テキストブック 宗?流 十世家元山田宗? 主婦の友社 ISBN 4-07-914496-2
^ 東海新聞社編纂『岡崎市戦災復興誌』岡崎市役所、1954年11月10日、1174-1175頁。


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