山田守
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山田守
生誕
1894年(明治27年)4月19日
岐阜県羽島郡上中島村
死没 (1966-06-13) 1966年6月13日(72歳没)
東京都品川区東五反田
国籍 日本
出身校東京帝国大学
職業建築家
受賞芸術選奨(1953年)
日本建築学会賞作品賞(1954年)
藍綬褒章(1964年)

所属山田守建築事務所
建築物東京中央電信局
東京厚生年金病院
日本武道館
京都タワー
初期の代表作・東京中央電信局(1925年、現存しない)

山田 守(やまだ まもる、1894年4月19日 - 1966年6月13日)は日本の建築家逓信建築の先駆者的存在、モダニズム建築を実践し、曲面や曲線を用いた個性的、印象的なデザインの作品を残した。
生涯

岐阜県羽島郡上中島村字長間(現・羽島市)生まれ。上中島小学校、岐阜県立大垣中学校第四高等学校を経て、1917年東京帝国大学建築学科入学。1920年、青年建築家のグループ分離派建築会を結成する。同年、同校卒業[1]逓信省営繕課に入り、電信局・電話局(逓信建築)の設計を行う。東京中央電信局(1925年、現存しない)ではパラボラ型アーチの並ぶ個性的なデザインが注目された。1924年から復興局土木部に所属し、永代橋聖橋に代表される関東大震災後の震災復興橋梁のデザインを行った。

1929年から1930年にかけて、逓信省の命でヨーロッパ視察旅行に出かけベルリンに滞在した。当地では、ヨーロッパ各都市の建築を視察すると共に第二回CIAMに参加。また、ル・コルビュジェヴァルター・グロピウスエーリヒ・メンデルゾーンらを訪ね、近代建築運動に触れ、大きな影響を受けた。

1945年、逓信省退官。同年、逓信建設工業を開設し独立。1949年、山田守建築事務所設立。東海大学の設立に関わり、設立後は東海大学工学部建設工学科教授として後進を指導する。京都タワーでは「東寺の塔よりも高いものは建てない」ことが不文律となっていた古都の景観を乱すという批判を受け、1972年に施行された「京都市景観条例」に制定された巨大工作物規制区域設定の1項目として活かされることとなった[2]
受賞・受勲歴

1933年 逓信協会賞(旧東京逓信病院

1944年 勲三等瑞宝章

1953年 芸術選奨文部大臣賞)(旧東京厚生年金病院)

1954年 日本建築学会賞作品賞(旧大阪厚生年金病院)

1964年 藍綬褒章

1964年 勲三等朝日中綬章

作品

名称年所在地状態備考
とうきようちゆうおうてんわきよくうしこめふんきよく/東京中央電話局牛込分局1922年(大正11年)13東京都新宿区現存せず
もしゆうひんきよくてんわ/旧門司郵便局電話課1924年(大正13年)40福岡県
北九州市門司区NTT門司電気通信レトロ館
とうきようちゆうおうてんしんきよく/東京中央電信局1925年(大正14年)13東京都中央区現存せず
えいたいはし/永代橋1926年(大正15年)13東京都中央区・江東区重要文化財山口文象とともに意匠面で関与したといわれる。
旧和歌山郵便局電話事務室1926年(大正15年)和歌山県和歌山市現 NTT京橋会館の一部
ひしりはし/聖橋1927年(昭和2年)13東京都文京区・千代田区
てんかちゃやゆうひんきよくてんわふんしつ/旧天下茶屋郵便局電話分室1927年(昭和2年)27大阪市西成区現存せず現 NTT西日本天下茶屋第1ビル 2016年解体
きゆうせんしゆゆうひんきよくてんわしむしつ/旧千住郵便局電話事務室1929年(昭和4年)13東京都足立区NTT東日本千住ビル DOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築
はんたいはし/萬代橋1929年(昭和4年)15新潟市中央区重要文化財
こうふゆうひんきよくてんわきよく/旧甲府郵便局・電話局1931年(昭和6年)19山梨県甲府市現存せず甲府市役所4号館
つるみてい/鶴見邸1931年(昭和6年)13東京都現存せず1933年に来日したブルーノ・タウトを山田自らが案内した。
おきくほゆうひんきよくてんわしむしつ/旧荻窪郵便局電話事務室1932年(昭和7年)13東京都杉並区現 NTT東日本荻窪ビル
ひろしまていしんしんりようしよ/旧広島逓信診療所1935年(昭和10年)34広島市中区広島逓信病院旧外来棟被爆資料室 DOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築


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