山田古嗣
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 凡例山田 古嗣
山田古嗣(菊池容斎前賢故実』)
時代平安時代初期
生誕延暦17年(798年
死没仁寿3年12月21日854年1月24日
官位従五位上相模権介
主君淳和天皇仁明天皇文徳天皇
氏族山田宿禰
父母父:山田益人
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山田 古嗣(やまた の ふるつぐ)は、平安時代初期の貴族のち宿禰越後介・山田益人[1]の長男。官位従五位上相模権介

能吏として知られ、内記外記を歴任して文筆をもって朝廷に仕えたのち、地方官としても治績を挙げた。『日本後紀』の編纂にも携わっている。
出自

山田氏(山田造・山田宿禰)は中国渡来氏族周朝の第23代王霊王の子孫で[2][3]王昶の後裔とされる[4]
経歴

平安京左京出身。弘仁12年(821年)に父・益人が死去した際、哀悼の様子や謹慎生活が度を越しており、身体容貌がひどく衰えてしまったという。

天長3年(826年陸奥按察使記事に任ぜられる。のち、天長5年(828年少内記、天長6年(829年少外記承和元年(834年)には大外記と専ら文筆を扱う官職を歴任した。勤務成績は優秀で、その広い見聞と有能さから公卿大臣らの顧問として重用された。この時期には『日本後紀』の編纂作業にも従事しているが、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}能吏でなければ史書編纂に携わることはあり得ず、このことも古嗣の有能ぶりを示している[要出典]。のち、承和3年(836年従五位下、承和7年(840年)従五位下に昇進するとともに、この間の天長10年(833年)には宿禰姓を賜与されている。

承和13年(846年阿波介として地方官に転じる。同国の阿波郡美馬郡は、常に旱魃に悩まされていたが、古嗣は溜池と用水を築造する灌漑事業を成し遂げ、その仁政と能力の高さから広く名声を得た。現存する浦池(徳島県吉野川市(旧土成町)内)と古池(徳島県三好市(旧池田町)内)は、古嗣が築造したとの伝承が残っている。

仁寿2年(852年)に左京亮、仁寿3年(853年)従五位上・相模権介に叙任されるが、病を得て同年12月21日に官職に就いたまま卒去。享年56。最終官位は相模権介従五位上。
人物

性格は清廉謹厳で寡黙であった。また孝行心が篤く、以下の逸話がある[5]。なお、『前賢故実』の肖像もこの逸話において落涙する場面を描いている。

幼い頃に母を亡くし、おばを母として敬っていた。ある時、前漢時代の説話集『韓詩外伝』を読んでいると「樹欲靜而風不止。子欲養而親不待也。」(木は静かにしようとしても風はやまない。子が親孝行をしようとしても親の寿命は待ってくれない)の句に出会い、実母に孝行できなかった後悔から涙で巻帙を濡らしたという。

官歴

注記のないものは『六国史』による。

天長3年(826年) 日付不詳:陸奥按察使記事

天長5年(828年) 日付不詳:少内記

天長6年(829年) 11月:少外記[6]

天長10年(833年) 12月26日:造姓から宿禰姓に改姓

承和元年(834年) 11月19日:大外記[6]

時期不詳:正六位上

承和3年(836年) 正月7日:従五位下

承和7年(840年) 正月7日:従五位下(内位

承和13年(846年) 正月13日:阿波介

嘉祥4年(851年) 2月13日:見散位

仁寿2年(852年) 2月15日:左京亮

仁寿3年(853年) 正月7日:従五位上。7月21日:相模権介。12月21日:卒去(相模権介従五位上)

脚注[脚注の使い方]^ 読みは「やまだのますひと」


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