山田一雄
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この項目では、指揮者・作曲家について記述しています。「競馬ブック」所属の競馬評論家の同名の人物については「山田一雄 (競馬評論家)」をご覧ください。

山田和夫 (曖昧さ回避)」とは別人です。

山田一雄
山田 一雄
基本情報
生誕 (1912-10-19) 1912年10月19日
出身地 日本東京府
死没 (1991-08-13) 1991年8月13日(78歳没)
学歴東京音楽学校
ジャンルクラシック音楽
職業指揮者作曲家
担当楽器指揮

山田 一雄(やまだ かずお、1912年大正元年)10月19日 - 1991年平成3年)8月13日[1])は、日本指揮者作曲家。本名は和雄。和男、夏精(かせい)を経て、1968年に一雄と改名した。「ヤマカズさん」の愛称で親しまれ、朝比奈隆らと並んで日本のクラシック音楽界を支えた指揮者であり作曲家。東京芸術大学名誉教授。
人物・来歴

東京府生まれ。学習院中等科2年の頃にピアノを独学で学び、作曲にも熱中した。学習院高等科へ進学するも東京音楽学校への進学を志して休学。1931年東京音楽学校(現東京芸術大学)ピアノ科首席卒業ののち研究課程に進み、卒業後は同校で教鞭を取るようになった。在学中からクラウス・プリングスハイムに師事し作曲を学び、作曲関連の各種の賞を獲得。また、1939年には安部幸明小倉朗らとともに自作や現代作品の演奏をメインとする音楽集団「プロメテ」を結成した(時節柄、たった2回の活動のみで解散)。

指揮活動は、1935年JOAKのラジオ放送で自作を指揮をしたのが最初であり、ジョゼフ・ローゼンストックの元で研鑽を積んだ後、1941年9月に新交響楽団(現NHK交響楽団)の補助指揮者に就任。直後の太平洋戦争開戦でローゼンストックの活動に制限がかかり、まず地方公演をローゼンストックに代わって指揮をするようになり、次いで1942年には、共演者とのトラブルで機嫌を損ねてしばらく休養することになった彼の代役として、ローゼンストックが出演をキャンセルした残りの定期演奏会の指揮を尾高尚忠とともに引き受けた。新響が日本交響楽団に改組後、尾高とともにローゼンストックを支える立場の専任指揮者となり、3人で日響の指揮台を守った。1944年召集令状が来るがすぐに除隊。翌1945年には満州国に渡り、新京ハルビンのオーケストラを指揮した(当時、満州には朝比奈隆もいた)。ソ連軍が満州に侵攻する数時間前に伝馬船で大陸を脱出し、帰国した。

自作を含むピアノ演奏も行なっており、指揮デビュー以前は新交響楽団でオーケストラ内のピアノ・パート(いわゆる「オケナカ」)を頻繁に受け持っていた。この時代、「オケナカ」は奏者の不足していたハープのパートを代奏することが多く、それが転じて自身もハープに興味を持って習得し、1940年の「紀元2600年記念演奏会」にはハープ奏者として加わっている。晩年までパーティーの余興などでハープを披露することがあった。

日本に引き揚げ後は、以前と同様に日響の指揮台に立ったり、時間的な余裕が生まれたため作曲の筆を再開したりした。1949年にはマーラー交響曲第8番「千人の交響曲」を日本初演するなど順調な活動を続けていた。ところが、1951年に日響がNHK交響楽団と改称される際、常任指揮者としてクルト・ヴェスが迎えられたことにより山田の立場は影が薄くなり、やがて山田はN響とは距離の置いた活動を繰り広げることとなった。まず大阪に移り、NHK大阪放送管弦楽団の指導に当たり、次いで1956年にはニッポン放送の「フジセイテツコンサート」用オーケストラであるNFC交響楽団(在京オーケストラからの選抜メンバーで構成)を組織した。

1960年から首都圏へ戻り、手始めに東京交響楽団1966年から日本合唱協会1968年から群馬交響楽団、次いで1972年から京都市交響楽団の各音楽監督等を務め、1977年からは新星日本交響楽団の顧問(没後、新星日本時代・合併後の東フィル時代を通じて永久名誉指揮者)となるなど、多くのオーケストラとの共演を重ねた。


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