山王宮日吉神社
拝殿正面
所在地京都府宮津市宮町1408
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度32分25.5秒 東経135度11分19.3秒 / 北緯35.540417度 東経135.188694度 / 35.540417; 135.188694
山王宮日吉神社(さんのうぐうひよしじんじゃ)は、京都府宮津市にある神社。宮津郷の総産土神とされた[1]。例祭の「山王祭」は江戸時代には宮津藩祭と定められ藩士もその行列に参加した。宮津祭とも呼ばれている。旧社格は郷社。地元では「さんのうさん」、「ひよしさん」と呼ばれ、親しまれている[2]。
祭神
大己貴神(おおなむちのかみ)
大山咋神(おおやまくいのかみ)
歴史本殿神域全景
宮津城下西部の滝上山山裾の、松ヶ岡と呼ばれる宮津湾を望む丘を神域として鎮座する。境内には他に7社の摂・末社があり、本殿右には式内社であり摂社とされる杉末神社が祀られている。創建は平安時代とも言われているが年代は不明であり、近江国坂本の日吉大社より勧請されたものとされている[3]。神域は元は宮津郷内唯一の古社である杉末神社の境内であり、山王宮日吉神社は平安時代にその境内地に祀られたとされる[4]。やがて旧藩時代歴代の宮津藩主の崇敬の中で主神となり、神域中央に本殿を始めとする社殿が藩主により次々と造られていった。
現在の社殿は1688年(貞享5年)藩主・阿部正盛により再建。廊下は1716年(享保元年)に藩主・奥平昌春、続く幣殿は1749年(寛延2年)藩主・青山幸道により建立[5]、また拝殿は1835年(天保6年)藩主・本庄宗発により建造されている。
本殿は与謝郡一帯に分布する社殿形式の最古例であり[6]京都府の指定文化財に、また他の摂・末社の多くも文化財として登録されている。神域には巨木が多く点在し、その全域は文化財環境保全地区に定められている。また近年、北前船寄港地として文化庁より日本遺産に認定された宮津市の構成文化財の一つでもある。
特に江戸時代には歴代宮津藩主の崇敬を受け、宮津郷の産土神とされた[7]。氏子区域は宮津城と城下を区切る大手川沿いの東堀川、京街道より西全域とされ[8]、春の祭礼である山王祭は城下挙げての大祭であった。宮津祭・国祭とも呼ばれ、宮津藩や宮津城主と深く関わる藩祭として定められた。現在の神輿は幕末の藩主・本庄宗秀が寄進したものである。神仏分離令以前は山王社と称し、現在も宮津ではその呼称で呼ばれ続けられている。 境内地は、背後の滝上山と共に宮津屈指の景勝地で、1647年(正保4年)に時の宮津藩主であった京極高広が作庭し、次代藩主信濃守永井尚長が延宝年間に拡張、漱玉亭(そうぎょくてい)と名付けて祠堂を構え、庭園も整備した。その名残と言われる大さざんか(根本を囲む「漱玉」と彫った大石が残る)が残る[2]。 如願寺
境内
境内の北西に位置する漱玉亭跡庭園は、山麓の自然林を借景に、滝石組を備えて人工の瀑布を設けた庭園であり、宮津市の名勝に指定されている[10]。社蔵の古地図によれば、如願寺川の上流から水をひいて爆流としており、その水道の遺構が石組の頂上にある[11]。漱玉亭を中心に一帯の風景を称賛した十六境の詩文が遺されている[11]。借景となっている後山を滝上山と称するのは、この滝に由来するとの一説がある[11]。
また、境内の石段の脇に、「含紅桜(がんこうざくら)」が残る[12]。