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凡例山浦 景国
時代戦国時代 - 安土桃山時代
生誕天文15年(1546年)
死没文禄元年(1592年)[要出典]
改名村上国清→山浦国清→景国
別名源五、源吾、通称:蔵人
主君上杉謙信→景勝
氏族信濃村上氏→山浦上杉家
父母父:村上義清[注 1]、母:小笠原長棟娘
猶父:上杉謙信
兄弟村上義利、村上義勝、村上義照、
村上義邦、景国、村上義満室、内山清宗室、村上義房室、高梨頼治正室、
会田清幸室、
養兄弟:屋代正国室、上杉景勝、上杉景虎、上条義春
妻正室:上杉謙信養女(朝倉義景娘)
子幸清、高国
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山浦 景国(やまうら かげくに)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。上杉氏の家臣。 天文22年(1553年)、父・村上義清と共に武田晴信に追われて越後国の長尾景虎(上杉謙信)を頼ってその猶子となり、謙信の養女を娶る。女系ではあるが上杉重房の血を引いていたので、後に当時断絶していた山浦上杉家を継いで山浦国清と名乗る。初め、客将として謙信に仕え、川中島の戦いや越中国での戦いなど、謙信に従って各地を転戦。謙信死後は上杉景勝に仕えて御館の乱の功績により、景勝から一字を与えられて山浦景国と名乗ることを許された。一方で、対外的には旧姓の村上を称し続けていた[1]。 天正10年(1582年)には、海津城主となり父の旧領を回復する。しかし、元大名であったことが災いし、他国の大名、武将と書状を通じて交流していることで他家と内通していると疑いを掛けられた。さらに、与力の屋代秀正が徳川家康に寝返ったために海津城主を改易され越後に召喚され、根知城主にさせられた。その際、旧村上家臣も景国から離れて散り散りにされたと言われる。 慶長3年(1598年)、上杉景勝の会津移封に伴い、塩松東城の城代となり、6500石を領した。没年不詳[1]。 山浦家は後に景勝の側室桂岩院の実家四辻家出身の山浦光則が家名を継いだ。
生涯
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 祖父説有り。
出典^ a b 片桐昭彦「村上(山浦)景国の家中・知行と海津城
表
話
編
歴
山浦上杉家第4代当主
宗家
憲栄1368-1378
房方1380-1421
朝方1421-1422
頼方1422-1431以前
房朝1431以前-1449
房定1449-1494
房能1494-1508
定実1508-1550 | 断絶